WEB官能&BL(07)斎王ことり『私が猫になる日まで』
更新日:2013/8/6
犬と人が共通で楽しめ、糞尿忌避剤にもなるフレグランス開発業務から途中離脱せざるを得ないのが残念だったが、“お上”の決定は絶対である。
隣の部署で誰かが辞めたという話は聞いていないから、産休とか、育児休暇で一時的に抜ける人が出たのだろうか。猫のほうがこの狭小住宅のご時世を反映して人気のペットとなり、業務が大変になったのかもしれないし、若社長の発案の下、何か新しいプロジェクトが発動するのかもしれない。
海外修業から帰国した若社長になってから、本社でも縮小部門ができたり販売経路が変わったり変動が激しくなったとは聞いていた。
(観葉植物レンタル部門も縮小されたし、ペット部門も終了の前触れじゃないといいけど。若社長はアメリカで事業経営を学んできたやり手とも聞いているけれど、そもそもあまり動物が好きではないらしいし。やだ、そうだったらどうしよう)
新しい社長は就任式で一度だけ遠目で見たが、背が高くまだかなり若く見えた。
先代はペット事業での利益より、自然保護や動物愛護の精神優先で、生前数人の息子の誰に会社を譲るか悩んでいると冗談交じりに言っていた。
丹亜は先代社長とは入社以前に出会っていて、ペットには並々ならぬ愛情を抱くようになっていた。
彼氏とのデートより生き物を愛し、ペットショップでアルバイトもした。異動部署に不安はあるが、昇級したら家のシバと、陸亀の陸とコンゴウインコの姫の生活空間をたっぷり取れる戸建てに引っ越せるかもという願望がむくむくと湧いてくる。
犬部の開発チームは、丹亜以外男性ばかり5人だった。さばさばしていて愉しかったが、猫部は女性しかいなかったはずだ。
「猫好き女子にいじめられないようにね。犬の匂いがすると『シャーッ』てされるよ」
「ああ丹亜、会議があるから052号室に来るようにって連絡があったから、そっちに行って。その前に地下の猫カフェに行って猫の匂いを付けたほうがいいかもよ」
先輩たちの、爪を立てるようなゼスチャーと素敵な送り言葉と荷物を胸に、丹亜は廊下を突き当たった所にある白い扉を開ける。
「あの……失礼します。このたび人事異動になった一ノ瀬丹亜……です」
恐る恐る部屋を覗き込む。だがもう9時半過ぎだというのに、052号室は無人だった。
初めて入るその部屋は、企画部というより高級な応接室の仕様だった。白いブラインドも洗練されたものだったし、見栄えのする西洋絵画まで飾られている。今までここは猫部の資料室として使われているはずだと思っていたが、入って見れば、役員室のように豪華だ。奥には応接用の革張りソファとコーヒーテーブルが置かれた絨毯スペース。手前の机の一つは社の試作中グッズで埋まり、一つは最新式のパソコンが載り、窓際に離れて置かれている。
壁際にはガラスのはめ込まれた白いキャビネットが並んでいて、貴重な美術品が並べられている。
中に踏み込んだその瞬間。すぐ傍らで「にゃあ、にゃあ」猫の声が響いて、丹亜は短い悲鳴を上げて飛び上がった。
その拍子に、必需品を詰め込んできたクラフトボックスを取り落とし、床上に散らばったバインダーや文具類を拾い上げようとして慌ててしゃがみ込む。その動作でお尻に何かが触れて、突き飛ばされるような体勢になった丹亜は、ここで二度目の悲鳴を上げた。
「きゃ!」
「──おい。危ないな。大丈夫か」
まさか、そこに人が立っていたなどと思いもしなかった。
がっしりとした上背のある男性のスーツが目に入った。ネクタイに犬の刺繍もない。かといって猫の柄でもない。シックなストライプの柄だ。シャツの襟もプレスされて美しい。なぜかそんなものだけが目についた丹亜だったが、お尻がはじき飛ばされた衝撃のまま、四つんばいの姿勢になっている。手をついたせいで丹亜の荷物はより広範囲に散らばって、男性の前にかわいらしい犬のグッズが晒されていた。
「ああ……私……」
拾い上げようとした手に、しっかりとした骨格を感じさせながらも憧れるほど綺麗な指先をした男性の手が重なった。
「あ……」
思わず、その手を引っ込めようとした。だが男性は丹亜の手を掴んだまま腰を折るようにしてしゃがみ込む。
「いいんだ。俺がやるから」
押しつけがましくはない口調なのに、どこか相手を従わせる低い声。
ふわっといい香りがした。いつか嗅いだことのある香り。さらりと音を立てて栗色の前髪が落ちる。
うつむき加減の綺麗なまつげと通った鼻筋に、胸がどきんとときめいた。誰だろう。猫部は女性しかいなかったはずだが、自分の緊急部署異動と同様に、猫部の内部でも人事異動があったのかもしれない。
「これは……何の犬?」
「え」
彼のつややかな髪に見とれていて、質問を聞き逃した丹亜は慌てて聞き返す。
「これは、何の犬? 君はまさか犬好きの犬部か? ここは猫部開発許可特殊企画部の部署だけど」
彼に手を重ねられたまま、丹亜は狆の形に抜かれたメモ帳を見下ろした。
「あ、犬部から異動になってここに来ました。私は犬も好きですが猫も好きです。そしてこの白と黒の犬は、ち、狆です。あの……お座敷犬です。昔中国の皇帝や皇后がかわいがっていたり、日本の城主やお姫様がかわいがっていた」
「ああ、知っている。最近欧米でも人気が高まってる犬だ。だが……卑猥な犬だな」
「卑猥……な……犬?」
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