大好きな人が「私のすべて」ではない。失うことで私は“私”になれると知った、大切な詩集 【読書日記9冊目】

文芸・カルチャー

2019/10/15

2017年7月某日

 何のために書いていけば、どうやって生きていけばいいかわからなくなってしまった。

 インターネットで好きな人が結婚したという情報の片鱗を見つけて、「寂しくなったから電話してもいいですか」などと何でもないような顔をして、結婚について問いただしたら、数秒の沈黙の後に彼は「そうだよ」と言った。「私も結婚相手のひとりとして検討してくれるって言ったじゃないですか、勝手に結婚するなんてひどいです」と初めて強めた語気も、「結婚してるの、知ってたと思ってた」という能天気な声の前に霧になって散る。

 後で知ったことだけれど、私に「結婚相手のひとりとして検討する」と言ったときには彼はすでに入籍をしていたようで、そんなことも気づかずに言葉を鵜呑みにした私はバカバカバカバカ大バカの超バカ、だけどそれが本当でも嘘でも今の私にはどちらでもよく、とにかく私は今この瞬間からどう生きていけばいいのか教えてほしかった。彼にもう会えない人生なんて考えられない。彼だけが人生のすべてだった。

 彼と出会ったのは、2年前のことだった。当時ライターの仕事をはじめたばかりで、ライターと名乗るのも憚られるほどの駆け出しも駆け出しの頃に出会った彼は表現で生計を立てていて、今以上に何者でもなかった私には目が潰れそうなほどに眩しかった。そんな彼に「なんでも叶うとしたら何がしたい?」と聞かれて、喉の奥から声を絞り出すように「文章で表現がやりたいんですけど、私なんかがやってもいいと思いますか?」と恐る恐る聞いたら「やっていいに決まってるよ! お前には才能があるよ」と肩を叩かれて、その瞬間から彼は私の神様になってしまった。

 今考えれば、「才能がある」なんていうベタなリップサービスを真に受けるなんてバカだと思う。だけど、その頃の私にはそれしかなかった。会社も辞めたてで、家もなくて、国立大を出てフランスに留学までさせてもらったのに何にも活かせるものがなくて、実績も人脈も社会的信用もお金も何もかもがなかった。

 だから、妄信した。

 私は彼の、神様の言葉を妄信して、noteに文章を綴ってはお供えするように彼に見せた。褒められるとうれしくて、もっともっと書いた。起きて仕事をしている間の時間以外はすべて彼のことでいっぱいだった。頻繁に連絡するのは迷惑かもしれないと、連絡するのは文章を書いたときだけにしていたから、早く文章を書かなくてはと思って、彼のことと同じだけ文章のことを考えていた。そうやって書いてきた文章はだんだんとたくさんの人に読まれるようになった。だけど、そんなことはわりとどうでもよかった。彼が褒めてさえくれればよかった。彼だけが私のすべてだった。

 だけど、彼は結婚してしまった。
 その可能性はまるで考えていなかった。

 彼は魅力ある人なのだから他にも女の人がいても当然だと思っていたし、彼とは結婚をしなくてもいいと思っていた。だいたい、彼と結婚するなんて、どんな人でも無理だと思っていた。だから、それ以外のあらゆる手立てを考えていた。それなのに、彼は結婚してしまって、しかも、それについて激昂した自分自身も許せなかった。

 結婚しなくていいと言っていたのに、彼の幸せが私の一番の幸せと言っていたのに、結局のところ自分の都合しか考えられないのかと思ったら情けなかったし、私が見ていたのは彼自身ではなく、“私の理想の投影”だったのかもしれないということが、私を深く沈ませ貫いた。そして何より、誰のために書いて、何のために生きていけばいいのかわからなくなってしまったのだ。

 途方に暮れる私に、“姉御”と慕う友人が「ずっと彼を想って生きてきたんだから、いきなりひとりでは立てないよね。心に彼を据えて、彼ならどうするか考えて行動してみて。そうしていくうちに、気づいたらひとりで立てるようになっているから」と言ってくれた。あたたかい言葉がありがたくて、私はうんと泣いたけれど、彼女の言葉が身体に落ちてくるまではまだ時間がかかりそうだった。

 それから数日経ってもまだ泣き腫らした目で本屋をふらふら歩いていると、帯に書かれた文字に目を奪われた。そこには「あなたを失うことは私自身になることだった」と書かれていた。

 ルピ・クーアの『ミルクとはちみつ』(アダチプレス)は、愛、喪失、トラウマ、虐待、癒し、女性性にまつわる詩集で、「傷つくこと」「愛すること」「壊れること」「癒すこと」の4章で構成されている。

 初めてこの本を読んだとき、少しだけ面食らった。詩というよりも、傷ついた人に寄り添うエッセイあるいは説法のようなものに近いと感じたからだ。でも、ページをめくっていくうちにそれが詩だとわかる。私は詩に詳しくないけれど、文字が風景を立ち上がらせる現象のことを詩なのだと、むかし誰かに教わった。

 さして具体例もないのに、抽象的な言葉たちは私の記憶の彼方に手を引いてくれた。「傷つくこと」からはじまる記憶の彼方への道のりは茨の森で、暗くて、心細くて、とても痛かった。読み進めるだけで再び傷つくようだった。「愛すること」を通るときは目が潰れるほどの彼の眩さを思い出して、彼への勝手な憎しみがやわらいだ。彼のことを想っていた日々が無駄や間違いだったんじゃないかという気持ちの背中に、あたたかな後ろ手が回される。安心した気持ちで、読み進められる。

「壊れること」は、今の私の心情を投影するようにして読んだ。私は自分の文章に誰かの想いを上乗せされることがあまり好きではないと思っていたけれど、自分の想いを誰かの言葉に託させてもらうと、こんなにも楽になるのだということは、このとき初めて知った。章末にある「やることリスト(失恋のあと)」はそっくりそのまま役立てて、教えのとおりに「チョコミントアイスを買って」、「他の人の腹のなかに自分の残りの人生を築き上げることができるなんて信じた自分はバカみたいだと思うことを自分に許可」した。

 最後の章「癒すこと」では、ここまで徹底して寄り添ってくれた著者・クーアが、“私”がひとりで立てるように奮い立たせてくれる。

あなたはまず他の誰かよりも先に
あなた自身との
人間関係を築きはじめるべき

他人の存在が
あなたを完全体にするだろうって
あなたを騙して信じさせたのはいったい誰
彼らにできるのはせいぜい補うことだけなのに

あなたを失うことは
私自身に
なることだった

 巻末までを読み切って、視界がだいぶ開けた気がした。彼を想って幸福だった気持ち、失った途方もない気持ちの両方を肯定してもらった。一方で、彼なしでは生きていけないと思っていたこと自体がそもそもの誤りで、彼を失うことで私が生まれ直せたのだと思えるようになった。それでも、彼と一緒に過ごした時間は私の中を流れ、会話から受け取った思想の断片は私の脳に埋め込まれている。

 彼はいなくなってしまったけれど、何も残らなかったわけではない。その事実が背骨を折った私を支えるコルセットになった。

 それからしばらくは“姉御”が教えてくれたように、何か判断に迷ったときは頭の中の“彼”に問いかけることにした。何もかもを自分で決めるのはまだ自信がなかったけれど、「きっと彼ならこう言ってくれるだろう」という確信は、えいやと飛び込む追い風になった。

 そうやって過ごし始めてどのくらい経っただろう。
 いつの間にか、私は何かを決めるとき、彼のことを思い出さなくなっていた。

 彼を失って、私はようやく私自身になれた。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino  写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka