「タコみたいだな。可愛い」男から触れられることに慣れていないのがバレバレで…『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』⑤

文芸・カルチャー

2019/11/13

『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』(イアム/KADOKAWA)

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!

 ハッとした。

 水槽のガラスに映った俺とお菊の笑顔に我に返り、前かがみにしていた体を起こす。お菊はまだ覗き込みながら人さし指をツンツンと優しく水槽に当てて、微笑んでいた。

 ……なんだ、これは。この流れるような会話は。

 ここへきて初めて、ちゃんとお菊を見た。Vネックの紺のワンピースにグレーのカーディガン、ローヒールの靴。地味だけど清楚な感じで、水族館になんとなく似合っているように思えた。髪はやはりお菊。ビン底眼鏡もそのまま。絆創膏は……。

「あ、傷、見せて」

「え?」

 絆創膏が貼られていないことに気付いた俺は、彼女の顔を覗き込んで、すっと前髪を脇に寄せる。ツルンとしたおでこの真ん中に、うっすらと残っている細いかさぶたが見えた。

「あー……あとちょっとってとこか。傷、残らなければいいけど」

「…………」

 お菊の顔が首まで真っ赤になったのに気付いたのは、半かがみの無理な姿勢で俺を見上げた彼女が、無言を決め込んだまま固まったからだ。男から触れられることに慣れていないのがバレバレで、唾をのんだのか喉が上下した。

「タコみたいだな。可愛い」

 噴きだしたその言葉に瞬きを増やした彼女は、ロボットのようにぎこちない動きで眼鏡のズレをなおしている。

 いったいこの女は、何歳なのだろう。初めてそこに疑問を持つ。

「あ、えと……そうだ! もう見ましたか? 今月のイベントの迷路水槽。チョウチョウウオたちがすごく可愛いんですけど」

「え? なにそれ。そんなのやってんの? どこで?」

「あっちです」

 魚の話に戻ると、一気に主導権を握りだすお菊。順路の奥の方を指さして、ついてこいと促した。その顔の楽しそうなことったらなかった。水族館だけに、水を得た魚さながらだ。

 でも、おそらくそれはやはり、俺も同じことだった。ひとりで落ち着きながら見て回るのもいいけれど、こんなふうに魚の話を対等にできる相手と楽しむのも悪くない。むしろ妙な高揚感を覚えていた。

 気付けば俺らは、館内を3巡していた。

 

「ご飯、どう?」

「え? あ、いえ……え?」

「昼食、食べてきてないでしょ? 一緒に食べませんか? ってこと」

 さすがに疲れた俺たちは、お土産売り場の前の椅子に座って休んでいた。腕時計を見るとすでに1時半だということに気付き、お菊をメシに誘ってみる。

「一緒に……え?」

 今の今まで魚の話でかなり盛り上がっていたというのに、別の話題を出した途端に挙動不審になってドモりだす。髪やら眼鏡やらを整えだして、カカカカと音が出るように頬を染めていく。

 あぁ、そうか。なるほど。たしかに、急に距離を詰めすぎか。

 実際俺は男だし、そういうふうに捉えられて警戒されるのも無理はない。ただ、話も合うしもっと語り合いたいから、時間帯的にご飯でも食べながらでもと思っただけで、お菊を女として意識して誘ったわけではないのだけれど。

「いや。無理にとは言わないけど、ほら、魚の話をこれだけできる人なかなかいないから、友達にならないかな、と思って」

「……友達……」

 彼女がきょとんとした目に、次第に光を灯し始めた。「友達……」ともう一度呟き、わずかに頬を緩めだす。

「わ……私も、あの、魚の話、できて、あの、た、楽しくて……だから……」

「はい」

「……え?」

「じゃあ、はい、友達。よろしく」

 俺はお菊の方へ半身を傾け、右手を差し出す。びくりとした彼女は、一瞬だけ固まった後で、おずおずと自分の右手を前に出した。握った手は俺の体温よりわずかに低く、さらりとしていた。手の甲も指も細くて薄く、なんとなくギュッと握るのは気が引けた。

「……あ、でも、昼食は……その……昨夜作ったカレーが、けっこう余ってるので……」

「え? マジ? 俺、カレー好き」

「え?」

「え?」

 

 部屋の鍵を開ける彼女を、斜めうしろから見ながら思う。さっきのは、「家にカレーがあるので帰ります」であって、「家でカレーをごちそうしますよ」では決してなかったと。

「……どうぞ」

 開いたドア。自分の早合点で招いた展開だとはいえ、そして1ミリも彼女に女を感じていないからとはいえ、やはり女性の部屋に上がるのは複雑だった。

「503って……俺んちの真下だね」

「……はい。だからあの日、間違えました」

「なるほど」

 そんな話をしながら玄関を上がる。非常に微妙な空気。でもこうなるとわかっていても、部屋に上がるのを遠慮しなかったのにはわけがある。

「わ、マジでいる」

 俺の部屋の間取りと同じ、10畳のリビングダイニングキッチン。その隅の棚、ふたつ並ぶ水槽の左側に、エレファントノーズフィッシュ、まさに象みたいな鼻をした10センチ前後の魚が2匹泳いでいた。

 俺は水槽に顔を近付けて、凝視する。綺麗な底砂、ちょうどいいくらいに配置されている水草や形のいい石、その上を悠々と泳ぐ2匹。水族館とはまた違う癒しがそこにはあった。

「知ってます? その象みたいな鼻、実は顎だって」

「あー、うん。知ってる」

「ハハ。さすが……えっと……」

「枦山」

「え?」

「俺の名前。枦山道」

 顔は水槽のままでキッチンのほうにいるお菊に自己紹介すると、彼女は、

「……わ、わかりました」

 と、語尾をごにょごにょさせながら言った。

「へー、このグッピー、キレイな色」

 隣の水槽へ目を移すと、そちらには同じ色のグッピーが7匹泳いでいた。黒に紫のラインが入ったグッピーで、昨夜彼女に返したハンカチの配色と似ていた。

「水槽の手入れ、ちゃんとしてるんだね。魚たちも居心地良さそう」

「枦山さんは、魚好きなのに飼ってないんですか?」

「あー、うん。今は」

「そうですか」

 カタン、とテーブルに置かれた皿の音で、俺はようやく振り返った。ベージュとスモーキーブルーを基調とした家具が整然と並び、清潔感のある部屋。そのキッチン側に置かれた小さめの木製ダイニングテーブルに、湯気を上げたカレーがふたり分準備されている。

 もうひと部屋の6畳間とを仕切るスライドドアは半分開いていて、奥にあるシングルベッドが3分の1ほど見えた。

 俺は視線を戻して、

「……どうも」

 と言いながらテーブルの前まで行く。

「味は保証いた、いたし、かね、ます」

 またドモるお菊は、手に持っていたスプーンのひとつを、俺に差し出した。

 皿に置かないのかよ、と思いながらも受け取って、椅子に座る。するとそれを真似するように、お菊も早送りで座った。

「いただきます」

 カレーは、普通にカレーだった。可もなく不可もなく、ただの美味しいカレーだった。

「うまい」

 だから、ハラがへっていた俺の感想は、偽りなくこれだった。

「ハ、ハハ。よ、よかった、です」

 視線を上げずにひたすら食べながら相槌を打つお菊。口に入れすぎたのか咳込んで、麦茶を勢いよく口に流し込んだ。そしてそのせいで、またむせる。

「大丈夫?」

「は、はい。すみません」

 涙目で前に垂れ下がる髪を耳にかけ、ふー、と大きく息を吐いて、今度はゆっくり頷くように食べるお菊。俺は、その滑稽な様子に少し噴きだして、彼女を魚を見るように観察しながら食べた。

「ごちそうさまでした。ありがとう」

 手を合わせて完食を示すと、「はい」と小さな声で言ったお菊は、なぜか急がなきゃと思ったらしくて、また食べるペースを上げ始めた。俺はひと息つき、部屋をぐるりと見渡す。

「あんまり女の子女の子してない感じの部屋だね。シンプルで住みやすそう」

 立ち上がり、奥のローテーブルとテレビの方へ行き、ローソファーを見下ろして「これも座り心地良さそうだし」と言ってみる。

「……どうぞ」

 口にたくさん入れているからくぐもった声で返すお菊。俺はずうずうしくも、そのスモーキーブルーのソファーに腰を下ろし、背を預けてみた。

 体を包み込むような素材と設計に感心し、しかもテレビ横の棚の水槽がよく見える位置だったため、俺は「なにこの贅沢」と呟く。水槽にライトがついているから、夜にあれつけて、部屋の照明控えめにして、優雅に泳ぐエレファントノーズフィッシュを見ながら酒を飲めたら……。

「至福だろうな」

「え?」

 ぼんやり想像を膨らませていると、すぐ近くにまで来ていたお菊がそう言って、ローテーブルにマグカップを置いた。縦の手書きボーダーのそのカップの中には、コーヒーが注がれている。

「ブラックで……よかったですか?」

「……あぁ、うん」

 俺は瞬きをした後で、「ありがと」と言ってコーヒーを見た。キッチンの方へ戻って皿を洗いだすお菊の気配を感じながら、ゆっくりとそれを口に運ぶ。

 まぁ、普通だった。普通のインスタントコーヒーだった。でも、ちょうど飲みたいタイミングだったから、やはり美味しく感じた。

「…………」

 ほんの少し首を傾げる。違和感がありすぎのこの状況に、俺はとてつもない居心地の良さを感じていた。そのことが不思議でならない。

「……ねぇ」

 聞こえていなかったのか、皿を洗う手を止めないお菊。

「ねえ」

 今度はけっこう大きめの声で呼んだので、彼女は、

「はっ、はいっ!」

 と、背筋を伸ばして返事をし、手を止めて俺の方を向いた。ビン底眼鏡が光を反射して、俺は一瞬目を細め、そして口を開く。

「また来てもいい? ここ」

<第6回に続く>

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