恋愛をやめたら退屈で窮屈。身近な世界を広げてくれた、小さいコトの話【読書日記16冊目】

文芸・カルチャー

2020/1/27

2020年1月某日

 年が明けて春の匂いが感じられるようになり、どん底の体調がほんの少し上向いてきたとき、私はあぁ退屈だなぁと思った。

 退屈でなかった頃はどうやって過ごしていたかというと、好きな男の人のことばかり考えていた。言い換えると今は、体調不良などのいろいろな事情で、恋愛というか人を好きになることから努めて距離を置いている。

 こんなことを言うのは恥ずかしいことだとわかっているけれど、ほんの数カ月前まで、私は本当の意味で自分のことを考えられていなかった。脳内のリソースをそこに割いていなかったと言ってもいい。生まれてからずっとそう。好きな男の人のことの前は、母のことばかりが頭にあった。そんな私は、常に母や好きな男の人を参照しながらでしか物事を考えられなかった。それがすなわち相手のためになっているかはまた別の話だし、ましてや彼らを責めたりする気持ちなんて更々ない。ただ、いずれにせよ余白がなかった。だから、退屈を感じることもなかった。

 すべての時間を自分のために使えるようになって、なんて自由なんだと思った。肩の荷が下りて解放されたような気分だった。と、同時に手持ち無沙汰で退屈な不安が胃の下あたりをぐるぐると徘徊し始める。それがどんなに「自由」で「解放」的なものだったとしても、物心ついたときからずっと自分の多くを占めてきた成分が一気になくなってしまって、身体に穴が開いたようだった。

 おかげさまで人や仕事には恵まれて充実しているし、やるべきことが山積みな中でこんなことを言うのも申し訳ないのだけど、仕事とて自分のこと。「自分の外」にある何かに、どっぷり浸って夢中になりたい。人を好きになること以外に熱狂したことがほとんどない。30年近くも生きてきたのに恥ずかしい。だけど、本当に、何をどうすればいいのかわからなかった。

 圧倒的な退屈は窮屈で、窒息とほぼ同義。私は水か酸素がないかのように、貪るようにして、いつにも増して本を読んだ。読書は毒にならないし良いのだけれど、気づけば1カ月で3万円以上も本に費やしていた。今住んでいる家の、家賃の半分。金額の大きさに切実な狂気を感じて、咳払いをするようにひとりで笑う。乾いた音が空気に散る。

 大方の仕事を片付けて本を読むのにも飽きたら、最寄りのスーパーに行くのが日課になっていた。いつもより安い食材や好きな惣菜に半額の札が付いているのを見つけたときは心の隙間が小さく埋まるのがわかる。さして欲しくもない食材をカゴに入れて買って帰ってきて、ちゃぶ台に広げてひとりで宴会をする。

 好きな惣菜はエビチリと中華風春雨とシュウマイの3つなので、毎日かなりの確率で同じ惣菜を口にする。飽きる。それでも、スーパーに行くのをやめられない。大した用事もないのに2フロアを隈なく“見回り”する私は、スーパーを泳ぐ回遊魚。退屈を埋めるように、あるいは何かに吸い寄せられるように、毎日スーパーに行っては好きな惣菜に半額の札が付いているか見て帰ってくるのだった。

 心もとなさを埋めるために足しげくスーパーと書店に通い詰めていた私は、思い立っては書店に寄り、必ず本を買った。先日、出張で大阪に行ったときも、「toi books」で益田ミリさんの『小さいコトが気になります』(筑摩書房)と、福永武彦さんの『愛の試み』(新潮文庫)の2冊を買った。私は本を買うとき、タイトルにピンときたら即決する。『愛の試み』はいかにも私が好きそうな感じだけれど、『小さいコトが気になります』は例外で、本全体からにじみ出るゆるさに妙に惹かれた。疲れていたのだと思う。骨が折れそうな本を読む元気はなかった。

 本をレジに持っていくと、店主の磯上さんが本を丁寧に袋に入れて手渡してくれる。その手つきはまるで茶碗に丁寧に手を添えているようにも見えて、そのたびに私はいつも茶室を思う。払ったお金以上に大事なものを受け取った気がして、いつも以上に丁重に受け取り、帰りの新幹線の中で『小さいコトが気になります』を読み始めたのだった。

 益田ミリさんの『小さいコトが気になります』には、人生を大きく左右しないような、しかし「確認」せずにはいられない事柄について書かれている。目次を見ると、「ポテトサラダの確認」に次いで「モンブランの確認」、続いて「つくりおきの確認」とある。それらは決して壮大な話ではなく、ポテトサラダに入っている具を確認するだとか、モンブランの生地がタルトではなくスポンジかどうか確認するといった、やっぱり小さなことなのだけど、それを確認したいと思うようになったエピソードや関連するお話がおもしろい。

 たとえば、「間取りの確認」は、新聞に挟まっているチラシの住宅広告の話なのだけど、そこから小学生の頃に理想の間取りについて描くのが好きだった話へ、クラスメイトの女の子も理想の間取りを描くのが好きだというので家に遊びに行ってみたら、まるで自分の理想の家に住んでいたという話へ、注文住宅のチラシの話に戻って、家族でお互いのこだわりについて、ときに言い合いになりながら決めたのではないかと妄想してしまう話などなどに展開していく。

 住宅のチラシを確認してしまうだけなら感覚的にもわかるけれど、その話にそんなにも奥行きがあったのかと驚かされる。まるで爪の先ほどの大きさの紙片を広げていくと実はタブロイド判だったというような広がりや、這うようにしか入れない洞窟の奥にはワインのシャトーが広がっていたというような感動を覚える。身近で、ともすれば些末にも思える事柄の裏には壮大な風景が広がっていたのかと思うと、もっと目を凝らさなければという気持ちになるのだ。

 馴染みの場所もたくさん出てくる。週の半分以上は渋谷にいる私にとって、渋谷のスクランブル交差点や東急の地下の惣菜コーナーの話などは、知人がテレビに出ているのを観ているかのようなドキドキ感とともに読み進めた。スクランブル交差点で外国人観光客が撮る写真に「いつも通ってますけど」とすました顔で写り込む話、写真の自分が自分の代わりに旅行してくれるとしたら世界一周なんてとうに超えているだろうなと想像する話。

 パン屋の「アンデルセン」から始まる渋谷東急の“デパ地下巡礼”では、華やかな惣菜・お菓子コーナーだけでなく、日本各地の名産が並ぶ「諸国名産」コーナーまで辿ると書かれていた。私も東急のデパ地下は用事がなくてもよく行くけれど、益田さんはとりわけ玄人だ。

 自分には馴染みがないお菓子も、その土地の人が手に取ったときの懐かしさを思うと急に愛おしく見えてくる、と聞けば、確かにとなる。むしろ「諸国名産」コーナーを通ってこなかった自分が人生を損していたかのような気持ちにさえなってくる。東急のデパ地下ひとつとってもこれなのだ。生活の中には見逃していたおもしろいことが、まだまだたくさんあるかもしれない。

〈どんなことがあった日も、行くと少し落ち着く〉
〈デパ地下は、外の世界からわたしを切り離し、空白の時間を与えてくれる。なにも考えたくないときも、人ごみの中だからこそひとりになれることもある〉

「デパ地下の確認」の最後に添えられた文章を見て、私は妙に納得してしまった。私が毎日用事もないのにスーパーで惣菜を確認しているのは、何かを埋めたいというよりも、ひとりになりたいのかもしれないなと思った。それに、こんなに楽しいことがあるなら、別に退屈でもなんでもないじゃないかとも思えた。

 日常の中には隠し扉がたくさんあるかもしれない。退屈だと言っている暇があったら、目に見える一つひとつをそっと押してみたいと思う。齢ほぼ30にしておおよそ知り尽くしてしまったと思っていた自分の外の世界が拡張していきそうで、まだまだうっかり死ねないな。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka