愛やセックスがよくわからない。寄る辺なき私が「つながり」を求めて読んだ1冊の光【読書日記17冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/2/25

2020年2月某日

 愛のことが何もわからない。

 文筆家として活動するテーマに「家族と性愛」なんて看板まで掲げちゃって、コンプレックスを前面に打ち出して恥ずかしいなと気づいたのは実はすごく最近のことだ。それまでは他人からどう見られているかなんて、気にしているようで全く気に留めていなかった。そんな余裕などないほどに、家族と愛を渇望していた。探せば、努力すれば、手に入るものと思っていた。

 ついでにいうと、セックスのこともよくわからない。

 セックスが愛と結びつられて語られることも、私は全くわからない。愛が暴力だというならばわかるけれど、みんなの語る愛はもっとふわふわとしてやさしいもののような感じがする。あの非日常で暴力的な行為のどこがどうして愛なのだろう。暴力が悪いと言っているわけではなくて、みんなの“愛”と“セックス”が私の思っているそれとは違う気がするという話だ。

 みんなが〔ふわふわした愛〕や〔つながれるセックス〕について語るとき、私はいつも仲間外れにされているような気持ちになる。心が荒む夜は、みんな何となくわかっているふりをしてそれっぽく語っているだけなんじゃないかなんて酸っぱいことを思う。気の置けない友達と飲んでいて珍しく記憶がなくなるまで泥酔し、「みんなだって愛について本当は何も知らないくせに」と泣いたのはつい昨年末のこと。愛がふわふわしているなんて、ましてやセックスでつながれるなんて――。

 セックスをしてつながれたと思ったことなど、一度もない。

 今更かまととぶるわけではなくて、しかし毎度、初めてのように緊張している。常に神経を鋭く尖らせて“正解”を探りながら“挑んで”いる。裸の状態で弱みを晒したら“喰われて”しまうから、目一杯余裕のあるふりをしている。油断すると身体が決壊して、誰かに触れられるのを身体がひとりでに拒否することもある。私にとって性交渉は命がけだ。

 ちなみに今はまた身体が決壊してしまって、剥がれ落ちたパーツを拾い集めている途中。裂け目から割れんばかりに叫んでいる身体の声を聞きながら、ごめんねと思う。機嫌を直してほしいと思いつつ、まるで自分のもののように扱ってきたのだから仕方ないなとも思う。身体が氾濫を起こして、もうすぐ半年くらいになる。

 3年くらい前もちょうど、今と同じ規模の氾濫があった。

 当時は求められれば、身体を差し出していた。言い訳だと言われるかもしれないけれど、私にとっては本当に、体調が悪い人に席を譲るように、寂しい人に親切心から身体を貸していた感覚だった。だから行為の後に「思わせぶりだ」とか「こんなに軽いんだから何をしてもいい」とか、私には難しい意味がいっぱいへばりついてきて混乱した。彼らを責めるつもりはない。それが世の中の一般的な感覚なのだろう。ただ、私にはよくわからなかった。難しい意味たちは積もり積もって閾値に達して身体を決壊させて、それ以降、セックスはおろか、スキンシップ程度に肩を叩かれるだけでも針金が通ったように身体が固くなった。

 何度か“リハビリ”しようと試みて、失敗した。今まで意識してこなかった身体という寄る辺の大きさに気づかされた。どうしたらよいかわからず、信頼できる人を頼り、いろいろな方法を試した。

 盟友の紹介で舞踏のワークショップに参加した。オイルマッサージのボディワーカーにもなった。信頼できる方に勧めてもらった本も読んだ。タイトルを見た瞬間、私は息をのむようにして、すぐにAmazonで注文した。その本は、代々木忠さんの『つながる:セックスが愛に変わるために』(新潮文庫)だった。

 この本には、AV監督である代々木忠さんが作品制作をしてきた30年間で培った、人と人とが「つながる」ための理論と方法が書かれている。その根拠は、代々木さんの制作スタイルにある。代々木作品に出演するのは、ほとんどが主婦やOL、学生といった“普通”の女性たち。今までに応募があった5,000人の女性を1人あたり2時間、長いときには6時間「面接」して、彼女たちの悩みを聞き、根底にある問題を解決できるような作品をつくってきたことが、この本で紹介される事例と根拠になっているのだ。

 帯には「愛する人と出会い、向き合い、満たされたいあなたへ」とあり、目次を見ただけでも目を背けたくなるようなフレーズが並ぶ。

「否定していたものを許せたときに愛が訪れる」
「男らしい男のセックス」
「愛は“今”という瞬間に宿る」

 読むのが怖かった。でも、読まずにはいられず、藁をも掴むような思いで読み進めた。

 各章には代々木さんの持論とともに、今まで作品に出演した女性や男性の話が出てくる。どういう悩みを抱えていて、それに対してどうアプローチし、彼ら彼女らがどう解放されていったかという筋書きが主。

 登場するのは、自己否定が原因で、膣が小さくなってしまう「ワギニスムス」を抱えて気持ちいいセックスができないと語る女性や、「男はかくあるべき」という枷に囚われていた男性、便箋20枚に亘って「自分の殻を破りたい」と書いてきた女性、「いい人」の仮面を外せずに風俗の女性にしか自分をさらけ出せないという男性などで、彼ら彼女らがときに涙を流して快楽を享受する様子がドキュメンタリーのごとく克明に描かれている。

 最初に読んだとき、正直なところ私は腹が立ってしまった。羨ましかったのだ。度合いの深刻さは脇に置いても“同胞”のような彼らが解放されていく様が。その描写はまさに生(性)の解放で、生きる喜びを全身で浴びているようだった。

 読みながら、私は何度も泣いた。感動して、羨ましくて、私もこうなれたらいいなと思って。

 これは代々木さんによる「ドキュメンタリー」だけれど、私には限りなく生身のファンタジーに思えた。代々木さんが嘘をついているとは思わない。でも、もしかしたらプラシーボ効果を狙ったフィクションな可能性だってある。

 とはいえ、この本に書かれた人間たちの生き様はそれだけで美しくて、彼らが解放されていく姿は涙なしには見届けられない。そして、その感動は私の核に深く刻み込まれて、時折思い出したように噴火し、人間との関わりを諦めがちなニヒルな私に火をくべるのだ。

 3年前に身体が氾濫したときは、舞踏やボディワーク、その他いろいろな人間関係に支えられて、身体を復旧することができた。正直に言って、この本のおかげで身体が治ったとは思わない。なぜなら、現に私は“愛する人と出会い、向き合い、満たされる”ことに憧れているし、また身体を氾濫させてしまったからだ。

 世の中の流れや他人とうまく付き合おうとすると、自分の身体や心の声をついついないがしろにしてしまって、しばしば身体の反逆に遭う。身体に怖い想いをさせてしまったことで、人間への不信感が募って、人との接触自体を避けるようになることもある。それでも、どこかで人との交流を諦めずに済んでいるのは、あの本を読んで一層強まった憧れの気持ちがあるからかもしれない。

 私にとって『つながる:セックスが愛に変わるために』は、まさに人とつながる可能性を残してくれた命綱のようなものだ。もしかしたら一生つながれることなんてないのかもしれない。それでも、私は死ぬまで憧れを燃やし続けて、その光で旅を続ける。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=薬真寺香

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka