あれは11歳の頃。あの夏の夜のことを私は忘れたことがなかった/『2409回目の初恋』④

文芸・カルチャー

公開日:2020/5/10

榊詩音は11歳の頃、天文クラブのイベントで一緒に星空を見た男の子、芹沢周に恋をした。高校生になり周と再会した時、彼女は病気で余命1年と宣告されていた。ここからふたりの、千年を重ねる物語が始まる――。

『2409回目の初恋』(西村悠/LINE)

▼6月21日

 最近じゃ珍しく、今日は晴れた。それだけでも、少し気分がいい。

 学校は、全体的に南仏プロヴァンス風どら焼きなんだけど、意地で通ってる。行くのやめても誰も文句は言わないだろうけど、私が自分に文句を言いたくなるような気がしたから。

 こうなればもう、勝負ですよ。

 そのうち皆、特別扱いに疲れて普通になる。むしろそうなれば私のねばり勝ち! みたいな気持ち。そう思うと、特別扱いもあまり気にならなかった。

 今は夜で、自分の部屋にいる。机の前の窓を開けて、夜の匂いや、ちょっとした寒さを楽しみながら書いてる。

 黒と青の中間色にある空には、星がきれいにはまってる。

 春の大三角、スピカとアルクトゥールス、カラス座にさそり座のアンタレスも見つけた。

 星めぐりの歌、そのままだ。

 そう、あれは十一歳の頃のこと。夏の読書感想文で、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んだんだ。本なんて昔も今も大の苦手。銀河鉄道だって、途中で疲れてしまって、ほとんど拾い読みだった。でも、物語の中に何度か出てくる『星めぐり』を口笛で吹くっていう文章が、なんだか妙に気になったんだ。ネットで検索してみたら、『星めぐり』は、正式には『星めぐりの歌』という名前があって、きちんと詩があるどころか、曲までついてるんだって。宮沢賢治が作曲したらしくて、少しびっくりした。だって、畑を耕しながら雨ニモマケズって言ってる人の印象しかなかったから。

 動画を検索したら、星めぐりの歌を歌ってる動画がいくつも見つかって。

 聴いて、鳥肌が立った。ただここにこういう星座があるんだよーって歌ってるだけみたいな感じなのに、どうしてかすごく心に響いた。

 きっとこの歌を作った人は、星空がすごく、とても好きなんだと思った。

 歌詞に込められた気持ちが伝わってくるみたいで、当時十一歳の私は、思わず夜空を見上げたんだ。でもどれがどの星座なのか、さっぱりわからなかったな。

 ちょうどその頃、地域の天文学クラブで、夏の夜空を見る会というイベントをやっていたから、私もそこにゲストとして参加した。夜空を見ながら星座を探すというその内容に、星めぐりの歌の中に入り込んだような感覚を味わえるんじゃないかって期待したんだ。

 それで、そう、あの男の子にも、そのイベントに参加したときに出会った。どこにでもいる、普通の、少しなよっとして、ちょっと女の子っぽい感じがしてたかな。

 名前は知らない。聞きそびれてしまって……いや、もしかしたら聞いたのかもしれない。でも、もう忘れてしまった。今となっては残念で仕方ない。

 そう、あの夏の夜のことを私は忘れたことがなかった。

 彼と一緒に、夏の夜の山を歩いた。

 小さな山のふもとから頂上に向かう、子供向けの単純なハイキングコースを、ふたり一組で歩くっていう活動内容だった。前の組から少し時間を空けて出発するから、基本ふたりだけで進むことになって。

 虫の鳴く声がすごいうるさかったな。山道は、道沿いの木々が枝葉を伸ばして、空を隠してしまっていたから、星も全然、見えなかった。ほとんど真っ暗で、手渡された懐中電灯を頼りに歩き続けた。

 恥ずかしながら、家族でキャンプとかもしたことがなくて、木々の奥にある暗闇が、なんだか得体のしれない恐ろしいものを隠しているような気がして、今にも引きずり込まれそうな気がして、すごく怖かった。

 一度、足元の小石につまずいて転びかけたとき、男の子は懐中電灯を消そうって提案した。そのほうがきっと歩きやすいって。消すと、ぐっと暗さが押しつぶすように迫ってきて思わず息をのんだ。真っ暗な世界に、私とその男の子とだけ、取り残されたような気がして。

 大丈夫だよ、少し待ってみて、とか、ちょっと緊張した感じに男の子が言ったんだ。だから、もう一度懐中電灯をつけようとした手を止めて。

 ただ立ち止まって、何かを待ってた。

 そうしたら、少しずつ周りが明るくなっていくの。頭の上の黒い枝葉の向うに、ちらちらと星が見えて、星の光が青白く、足元の地面に、網目模様の影を作った。

 少し前、家族でキャンプに行ったとき、従姉が教えてくれたんだって、言ってた。人の目っていうのは、想像以上に、暗さに強くて、普段明るいところで暮らしてるから、夜の美しさに気づかないんだって。

 男の子はなんだかちょっと、話しすぎたって顔をして、それから歩き始めた。

 私も歩き始めて、思わず、目に見えるもの全部が、ニセモノみたいに綺麗だって口にしてた。どういう意味なのか、自分でもよくわからなかったけど、でも確かに、そう感じたんだ。

 男の子は驚いたように、私を見て、それから、面白いことを言うねって、言った。小説家になれるんじゃない? って。国語ダメダメだった私は、なんだかちょっと得意になって、そうかもって胸を張った。最初の頃にあった、相手の気持ちを探るような沈黙はもうなくて、私たちは色んなことを話した。

 と言っても、私はただ聞くだけ。男の子はたくさんの本を読んでいて、色んな話をしてくれて、へー、すごい! としか言えない自分が、ちょっと情けなかったのを覚えてる。

 枝葉の網で覆われたような山道はいきなり消えた。暗さに目が慣れたと言ったって、やっぱり夜の山道は危ないから、下ばかり見て歩いていた私はうっかり、何をするために歩いてきたのか忘れていた。

 だから、男の子が上を見なよって言ったとき、顔を上げて驚いた。光る砂粒が空いっぱいにばらまかれて、空全体を紺色に浮かび上がらせてた。それらは、私たちまで白く浮き上がらせて、星明かりっていうものは、こんなにも明るかったんだと私に思わせた。

 その光景は目に飛び込んで、首の後ろあたりをチリチリとくすぐるんだ。

 暗闇に目が慣れた分、きっとよく見えるんだよ、って男の子が言って。

 それなら今、この星空のきれいさは私たちのふたりじめだって思って、それが、なんだかすごく嬉しかった。

 星の海の中にいるような気分になって、思わず走り出そうとしたとき、彼が少し慌てた様子で私の手を摑んだ。

 驚いて彼を見ると、彼はなんだか照れくさそうに俯いて、いきなり走り出すと危ないよって、そう言ってくれた。

 彼の摑んだ腕のあたりが、なんだか熱っぽくなったのを覚えている。

 気を取り直したように、星座を探そうと、星図を取り出そうとする男の子の様子にふと、あの曲を思い出した。

 星めぐりの歌って知ってる? と、そう聞いてみる。さっきから男の子がたくさんしてくれた本の話への対抗心もあったのかも。

 自分もちょっとは知ってるぞと、言いたくなったんだと思う。

 宮沢賢治? ってすぐに男の子が答えを返して、なんだ知ってるのかってがっくりきて。

 じゃあ、曲は? と聞くと、男の子は、それには、よくわからないというように首を傾げた。その動作がなんだか嬉しくて、私はちょっと得意になって胸を張ったんだ。

「銀河鉄道に出てくる星めぐりの歌には、素敵な曲がついてるの。宮沢賢治が作曲したんだって」

 少しは私のことを見直したかなと思いつつ、私も肩掛けバッグから、星図を取り出そうとした。

「どんな歌か、教えてよ」

 突然の男の子の言葉に、思わず手が止まった。それはさすがになんだか恥ずかしいと思ったし、誤魔化してうやむやにしたいと思ったのだけれど、見上げた空があまりにきれいだったからか、色々なことを考える余裕も消えてしまっていた。今は、それを恥ずかしいと思わないでいい時なんだって、なんとなくそう思った。

 星図と星空を見比べて、あれがさそり座、アンタレスだよね、と指さして、男の子は、うん、赤い目玉だと言って、それから私を見たんだ。それが呼び水になって、ごく自然に歌っていた。

「あかいめだまのさそり
 ひろげた鷲のつばさ
 あをいめだまの小いぬ」

 よく口ずさんでいた歌だったから、歌詞も旋律も、覚えていた。星図と星空を見比べて、歌に合った星座を形作る光点を見つめた。隣に、男の子の気配を感じた。

 声が星空の中に溶けていくような気がした。この曲は、今この瞬間のためにあるんだって信じてしまいたくなるほど、全てがうまく調和してるような気がした。

 歌い終わってしばらくしても、男の子は黙っていた。

 さっきまでの、この世界は完璧なんだという気持ちは、沈黙がきれいに溶かしてしまって、弱気がじわじわ胸に広がっていく。

 手が届きそうなくらい輝く星たちと、それを見上げる男の子で作られたきれいな世界に、自分の、できの悪い歌声を割り込ませてしまったことに、恥ずかしさと申し訳なさを感じ始めたとき。

「きれいな歌だね。宮沢賢治も、こんな空を見ながら歌ったのかな」

 男の子は、尋ねるように私を見た。私は、頷くだけで精いっぱいだった。

 世界はあまりに美しくて、完全だったんだと思う。この世界を閉じ込めて、自分だけのものにしておきたいとさえ、思った。

 男の子とはそれっきり、会うことはなかったけれど。

 あの夜の感じをなんて言えばいいのか、あの時はわからなかった。

 わかったのはずっと後、中学二年生の頃、その時の光景を夢に見たときで。

 あれがきっと、初恋だったんだろうなって、嬉しいような、あのとき気づいていればって、寂しいような気持ちになったことを、よく覚えてる。

 あの夜の光景と、星について話すあの男の子の声は、つらいときほどよく頭に浮かんで、私を支えてくれる。

 そのたびに、世界はあんなに美しかったんだから、生きていくのって悪いことじゃないって、そう思えるんだ。

<第5回に続く>