激痛のブランコ/『運動音痴は卒業しない』郡司りか②

小説・エッセイ

公開日:2020/7/1

 小さい頃のことを話すときに、「自分は変わってる子どもだったんです!」と言う人が多い気がするけど、あれは誰しもが自分は多少なりとも変わっていると思うからなのか、それとも子どもの頃一風変わった人格の人が執筆をする機会を得ることが多いからなのか気になります。

 どちらにしろ、まぁ、わたしも例に漏れず変わった子どもだったと思います。

 覚えてる限りの一番古い記憶は、地面におでこを叩きつけたときの地面の近さです。

 痛い!! よりも、近い!! と思った自分はだいぶ変だなと今なら思いますけど、当時は真剣でした。

 何に真剣だったかというと、人生を賭けた手離しブランコ対決です!

 今でもよく自分のなかでこっそり勝負してしまうのですが、この日がその始まりでした。簡単なゲームを作って、それをクリアできれば勝ちというものです。

 例えば、10秒間ブランコから手を離し続けられたら私の勝ち、この先の人生ハッピー! 離せずブランコの鎖を持ってしまったら私の負けでアンハッピーです。(もちろん、幼い頃は人生やハッピーなんて言葉を知ってるわけないので、勝ったらこの先ずっといい感じ~くらいに思ってました。)

 そしてこのとき3歳、この先80年か90年かわかりませんが莫大な時間は、3歳女児が所持してる中で最大の価値あるものです。それを賭けて、人生最大の博打。

 戦いの相手は自分です。

 よーいスタート。
 いち、にー、さーんガシャン!!

(ここで最初に戻る。)

 地面が近いのです。

 多分この頃から運動音痴だった私が10秒間手を離せたわけもなく、途中で鎖を持ったわけでもないので、勝敗は決まりませんでした。自分の人生は歩んでみて決めろということでしょうか。

 まだ歩けない弟を抱えながら私を見ていた母は、一瞬の隙になぜか地面に顔を打ち付けている私を見て悲鳴を上げたと思います。

 母からはいつもブランコに乗るときは鎖を離すなと何度も言い聞かされていたので、私は「きっと誰にもできない凄いことなんだろうなと。だからそれは人生を賭ける価値があると思ったのです。」なんてボキャブラリーもないので言えるわけもなく、ただ母に泣いてすがりました。

 一見単にドジで変わってる女の子ですが、それだけでブランコから落ちただけではなく、表現できなかったけど色んな考えがあってブランコから落ちたのです。つまり私はドジではない。(言い訳)

 学校に通い始めてからは、自分のことを表現できるようになるために日々勉強して、自分を表す言葉を習得してきました。

けれど私は幼稚園に通う頃から今に至るまで1度も自己紹介がしっくり来たことがありません。好きな食べ物や所属先などの一般的に話すような内容では、本来の自分の紹介にはならないと思ってしまうのです。

 なんとかして自分を説明して伝えないといけないと真面目に悩んできましたが、最近になって、自己紹介なんて全てを伝えなくてもよいのだとようやく気がつきました。好きな食べ物などの紹介は話のきっかけに過ぎなくて、その先にある簡単に言葉で表現できない部分を気長に伝え合えていけたらいいのだと思います。

 このブランコの話を書きたくて、いくつのときの出来事か母に聞いてみたら、思ってたよりかなり幼いときの経験だったので驚きました。3歳でこんなにも考えを巡らせていたのかと思うと、これからは小さな子どもにベロベロベ~なんて言えないなぁと。言ったことないけど。

 今もあなたの娘さん、息子さん、ペット、親、パートナー、友達、好きな人が、あなたが想像もしない考えをたくさん持っていると思います。

 そこを面白がれることで、また一歩近づき合えるのかなと私はいつも期待してしまいます。

<第3回に続く>

プロフィール
1992年、大阪府生まれ。高校在学中に神奈川県立横浜立野高校に転校し、「運動音痴のための体育祭を作る」というスローガンを掲げて生徒会長選に立候補し、当選。特別支援学校教諭、メガネ店員を経て、自主映画を企画・上映するNPO法人「ハートオブミラクル」の広報・理事を務める。
写真:三浦奈々