七月隆文『100万回生きたきみ』/特別試し読み #3

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/15

人気作家・七月隆文の文庫書き下ろし『100万回生きたきみ』から厳選して全4回連載でお届けします。今回は第3回です。美桜は100万回生きている。さまざまな人生を繰り返し、今は日本の女子高生。終わらぬ命に心が枯れ、何もかもがどうでもよくなっていた。あの日、学校の屋上から身を投げ、同級生の光太に救われた瞬間までは。100万の命で貫いた一途な恋の物語。『100万回生きたきみ』発売を記念して作品の一部を特別に公開!

100万回生きたきみ
『100万回生きたきみ』(七月隆文/KADOKAWA)

 彼はたたんだハンカチをポケットに入れた。

「体育のサッカーも教室から見てた。すごい動きをして、それからたぶんわざとパスを外してごまかしてた」

「見てたんだ」

「うん」

 彼はそっか、というふうに前を向いたまま。横顔にあせりや深刻さはなく、いつものように軽く口角を上げている。

「普通じゃないよね」

 したたる水の音が沈黙を埋め続ける。風もないのにこもった匂いが揺らぐ。

「実はさ」

 彼は変わらぬ口調で言う。

「俺、英雄なんだ」

 えいゆう。ふいの言葉で、変換に数秒かかる。

「……英雄?」

「みんなには内緒な」

 どう受け止めようか迷ったあと、きっとそうなんだ、とありのまま信じることにした。彼はそういうもので、こっそりと世界を守っている。なんだかそれは、彼にとても似合っていると感じたのだ。

「わかった」

 誰もいない雨の放課後。二人の立つ狭い踊り場だけが特別な場所であるかのように浮かんでいる。

「私ね」

 美桜は彼に言ってみようかという気になった。

「実は100万回生きてるの」

 隣にある肩から驚きが伝わってくる。

「どういうこと?」

 う、にアクセントを置いた軽い調子で聞いてきた。

「そのままの意味だよ。生まれて死ぬのを100万回繰り返してるの。いろんな時代の、いろんな国で」

 彼はひと息分の呼吸を置いて、ちょっと顎を上に向ける。

「なるほど」

 腑に落ちたという響きを洩らした。

 どういう意味だろう、と美桜は振り向く。

「いや、安土さんって変じゃん」

 笑顔で直接的なことを言われ、さすがに少し面食らってしまう。

「俺は好きだけど、けっこう」

 嫌みなくフォローしてくる。

 美桜は濡れた前髪を指で直しつつ、こんなふうだから彼はモテるのだろうと理解した。

「100万回かあ」

 三善くんがつぶやきながら扉にもたれかかる。

「信じるの?」

「俺が英雄だって信じてくれただろ?」

 口笛のように言う。

「それってどんな感じ?」

「退屈」

「やっぱそうなるんだ」

「うん」

「いろんなことしたのかな」

「ほとんど覚えてないけど」

「100万回だから?」

「そう。だからもう、どうでもいいの」

「……そういうことかぁ」

 彼の耳にかかった髪から雫がふくらみ落ちようとしている。美桜は自分のハンカチを差し出した方がいいのだろうかと迷った。けれど今日、何度か使ってしまっている。

「たしかにきついよな。だるくてもういいやって気分になるかも」

「そうなの。とても疲れていて何もしたくないってことだけは、はっきりわかる」

「でも俺は、安土さんに生きててほしいよ」

 さりげないようなのに、誠実な響き。なんだろう。変わらない表情からほんの一瞬、彼の素顔が見えた気がした。うまくは言えないけれど、そういうものが。

「死んだらまた、ぜんぜん違うところに生まれ変わるかもしれないんだろ」

「たぶん」

「ならもう会えないじゃん。俺と安土さんがこうしてるのはさ、100万回に一回の出会いなんだよ」

「…………」

 たしかにそうかもしれない。

 三善くんがこちらを向いて、穏やかに笑む。

「だから、もうちょっと生きててくれないか」

 どうしてだろう。

 どうして彼の声はこんなにもあたたかいのだろう。

 自分の中に小さな石があって、その音の響きでぼぉっと燐光が灯るような、そんな心地がするのだろう。

「……三善くんは、誰かを好きになったことはある?」

 気がつくと、そんなことを口にしている。

 なぜだろう。

 なんとなく。

「あるよ」

 彼はあっさりと答えた。

「どんな人?」

「明るくて」

 ゆっくりと雨に向く。まなざしが思い出す距離になる。

「世界で一番頭がよくて、人がいるとずっとしゃべってて、歌うのが好きだった」

 話す横顔をみつめていると、本当にその子のことが好きだったのだということが伝わってきた。

「私とぜんぜん違うね」

「そうかな」

 どうしてか、胸がほんの少し窮屈だ。

「安土さん」

 彼がスマホを差し出す。

「連絡先、交換しようぜ」

 交換した。

「なんかあったらいつでも話して」

 画面に表示された彼のIDは、なんだか特別なものがここに入ったと感じさせた。

「うん」

 コンクリートの庇からは水が伝い続けている。

 けれど、雨はほとんどやんでいた。

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