七月隆文『100万回生きたきみ』/特別試し読み #3
公開日:2021/10/15
3
よろしく、と短い挨拶を交わしたトーク画面を美桜はみつめていた。
ベッドにうつ伏せになり、置いたスマホを。ライトが暗くなるたび指で押して。
特に何も考えずに見続けている。逆に言えば、何も考えずにいられるほど没頭していた。
100万回生きていることを打ち明けた。
彼が英雄なのだという秘密を知った。
それを交換したお互いのつながりが、不思議とあたたかみをもっている。
安土さんに生きててほしいよ。100万回に一回の出会いなんだよ。そう言われたときのことを思い返すと、またぼぅっと灯るものがある。彼の好きな人はどんな顔だろうと考える。なぜか夜の森の焚き火が浮かんだ。
ライトが暗くなっていないのに、美桜は指で彼のメッセージにふれようとする。
そのとき、画面が着信に切り替わった。
告白してきた男からだった。
チキンナゲットはどこで食べても同じ味がする。
カラオケルームの薄暗い照明、しけったにおい、液晶が流すアイドルのトーク。
美桜の隣で、男がランチのカルボナーラを食べていた。歯でぶちぶちと麵を切る顔が、本当にカマキリみたいに見える。
すごく行きたいとかランチ付きのクーポンを持ってるとか彼がいろいろ言って、次の日の放課後、カラオケに来た。
あからさまだなと思った。
段階を踏まなくていいと判断されているのだろう。
美桜はメニューからナゲットを選んだ。それが一番口に入れやすそうだったからだ。
食べている間、会話は生まれない。もそもそと間延びした時間が過ぎる。
美桜の人生そのものだ。
ここへ来るまで、かすかに血に灰汁が混じったような不快さを覚えていた。
けれどいざこの状況に置かれてみると、奇妙な落ち着きがにじんでくる。ずっと、どうでもいいと過ごしてきた。だからこれでいい。自分はこういうものなのだと。
「とりあえず歌う?」
「私は聞いてる」
「……そ。ほな、ワイが一番得意なやつー」
彼が入力機を操作する。アイドルを映していた液晶が本人映像のMVに切り替わり、イントロが始まる。歌いだすまでの微妙な間。
彼が慣れたふうに歌う。アーティストに寄せて声を作っていることがわかる。サビに聞き覚えがあった。わからないけど流行った曲なのだろう。
「美桜ちゃん、マジで歌わないの」
「歌えるものがないから」
「なんかあるっしょ」
入力機を押しつけてきた。
美桜は仕方なくタッチペンでつつき、探すそぶりをする。なんとなく開いたアニメのジャンルをスクロールさせながら、ふと……三善くんはどんな歌が好きなんだろうと思った。
ぎゅしゅ。
ソファの人工革が軋んだ音を立てる。
彼があのときのように密着してきた。
そして、後頭部に手をあてがわれる。
…………。
鈍くにぶく―――腕の表面が寒くなった。
美桜は戸惑う。なんだろう、この感覚は。
後頭部の手に力が入り、頭が固定される。同時に彼が体ごと覆い被さるように回り込んできて、唇を合わせられた。
なんともなかった。
はずのその行為に、全身が粟立つ。
背筋と上腕がこわばり、足の親指が曲がる。
前のときも。
前の前のときも。
何も思わないし、感じなかったのに。
上唇を挟んでついばんでくる薄い皮膚の肉と濡れた粘膜の感触が、気持ち悪くてたまらない。鼻息がぶつかる。整髪料のきつい香り。
胸を摑まれた。円を描くように揉まれる。
刹那――頭の中でばちりと光が弾けた。
彼を突き飛ばす。
ふいをつかれ、あっさりとのけぞる。
美桜は立ち上がり、ドアに向かう。
「おい!!」
飛び出した。
階段を駆け下り、開きかけの自動ドアをくぐり抜け、店の外へ。
大通りの往来にぶつかりそうになる。
彼は追ってきていない。
けれどどうしてだろう。
美桜は走り続けた。
どうしようもない衝動があって、止まらない。
まるで今すぐ行きたい場所があるかのように。
腰でばたばたと跳ねるバッグからスマホを取り出す。
久しぶりの疾走に息を切らせながら画面を見て、指を滑らせる。
耳にあて、呼び出し音が途切れる瞬間を待つ。
そうしながら、美桜はようやくわかった。なぜ自分が走っているのか。
つながった。
「三善くんっ」
たまらず叫んでいた。
「三善くん、今どこっ?」
激しく行き来する空気に喉を痛めながら、心よりも速く。
『どうした? 何があった?』
彼の声が緊迫する。
「何もない、何もないよ、けどっ」
けど、向かっているのだ。
たどり着こうとしているのだ。
「どうしてかわからないけど、今すぐ三善くんに会いたいの!」
口にしたとたん、えもいえない爽快さが突き抜けた。
脇腹がきりきり痛む。脚が重くなって思うように上がらない。呼吸の音で頭の中がいっぱいになる。
美桜は笑っていた。
体を感じる。
こんなの、いつぶりだろう。