特別試し読み第1回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

更新日:2022/1/14

責任はみんなでふんわりと 山崎ナオコーラ

ミルクとコロナ
イラスト:山崎ナオコーラ

 母親賛美をしないと決めた自分の中にも「育児は妻がやるものだ」という考えがしつこく混じっているかもしれない、といちいち面倒くさく心を捉え直すところが、考え過ぎの白岩さんらしい。

 正直、私はそんなふうに真面目に考えたことがなかった。自分の心に責任感が本当にあるのかどうか、わからない。

 確かに、腹に子どもがいたときは気負っていた。流産の経験があったから、宿ってからはおそるおそる動き、私の一挙手一投足が子どもの運命を変えるかもしれない、とびくついていた。

 だが、産んでしまったあと、あの感じは急速に薄れ、もうじき子どもが二歳になろうとしている今、妊娠や出産のことを思い出して子どもとの関係を捉え直すことはほぼない。

 気軽に、「悪いね」「ごめんね」ともうひとりの親に言ってしまっていたのは、私の場合はそぐわなかったかも、と省みた。責任感があるわけではないのに、その場を無難にやり過ごすため、育児をするもうひとりの親に、「悪いね」「ごめんね」とさらりと声かけしてしまっているときがあった(ちなみに、「もうひとりの親」とは夫のことです。夫という言葉だと私の抱くイメージに合わないので、この面倒な表現にしてみました)。

 私は、「責任」という言葉のイメージに、「謝罪」と「辞任」が強くある。ニュースでよく聞く組み合わせだからだろうか。頭を下げている姿を見て、「ああ、責任を感じているんだなあ」と安易に思ってしまう。

「海外で事故に遭ったとき、先に謝ると責任の所在が自分にあると認めたことになるから、簡単に謝るな」というアドバイスも聞いたことがある。

 家でも、謝れば、「私に育児の責任がある」という表現だと、もうひとりの親は捉えるかもしれない。

 なんとなく、「きっとこれから、『妊娠・出産が親を作る』という考えは古くなっていくんだろうなあ」と想像している。「妊娠・出産・育児はひとりで行う」という概念は廃れていく。昔は腹の中がブラックボックスで、発生の仕組みも解明されておらず、「父親はつつくだけで、発生の源は全て母親のもの」という考えが主流の時代もあったみたいだし、妊娠中の腹の中はずっと謎だっただろうし、出産に医療が介入しないからほとんど母親の力だけで子を産み落としていたわけで、ひとりの作業ばかりだった。しかし、現代では、妊娠は父親と母親の遺伝子が半分ずつだと解明されているし、経済的なことを社会で負担してくれる部分もあるし、多くの人が協力してくれるし、ひとりではない感じが強まってきている。たとえば、私の場合は帝王切開手術で子どもを産んでいるので、私よりも医師や看護師、助産師の力が大きく働いており、出産はみんなで行っている。医療や文化の発達によって、「ひとりではなく、みんなで」という流れは、すでに始まっているのではないか。

 昔の小説を読んでいると、流産が起きたときに「ごめんなさい」と妻が夫に謝るシーンがよく出てくる(谷崎潤一郎の「細雪」にもある)。こんなふうに、妻が夫や夫の親に「ごめんなさい」と謝罪し、夫が「謝ることないよ。また、きっとできるよ」と返す、というようなシーンを現代小説で書いたら、不自然だ。批判も来るかもしれない。流産は誰にも止められないことだ、多くの場合は自然淘汰だ、母親個人の責任で起きることではない、という考え方を、時代や文化が作りあげたのだ。

 責任をひとりで負う、ということが古くなりつつあるのではないか。

 

 さて、私は、世間に漂う性別のイメージにコントロールされたくないと思って生きてきた。そうして、子どもができたとき、母親ではなく、ただの親として育児をしよう、と思った。育児エッセイは、子どもの性別は明かさずに書こう、と決めた。

 子どもは元気に育ち、最初の言葉は「ぞう」(絵本のぞうの絵で覚えた)、初めての二語文は「ガーガ、いない」だった(近所の川にカモがいて、それが飛んでいったときに言った)。動物が出てくる絵本を好み、生物図鑑をめくるのも好きだった。

 動物好きに育ったのだな、と喜んでいたのだが、ここ数ヶ月は電車のことばかりを言う。うちはテレビがないので、子どもはひっきりなしに絵本をこちらに持ってきて、私の手に無理やり押し付けながら「読んで」とせがむのだが、最近は、電車の絵本ばかりを持ってくる。それも、なんのストーリーも、デザイン性もない絵本だ。

 少し前、イチゴ狩りにでも連れていこうと特急あずさに乗った。「あずさ」「あずさ」とえらく喜んだので車内販売で模型を買って与えたところ、その夜は模型を握り締めて布団に入った。危ないと思って寝入ったあとに手から外しておいたら、明け方に「あずさ、ない」と叫びながら起き、泣き出したのでまた模型を握らせると、落ち着いて再び眠りについた。先日、富山に出張があり、新幹線かがやきに乗ったら、「かがやき」「かがやき」と大騒ぎだったので、かがやきのアップリケを服に付けた。

 正直なところ、不本意だ。決まった通りにしか動かない、四角四面でたいした個性のない人工物の、何がそんなに面白いのか。それと、私としては、もっと可愛らしい服を着せたい。

 でも、子どもは私の好みよりも、社会の風潮に染まっている。

 もしも、電車のない時代だったら、子どもは電車好きにはならなかっただろう。

 そうか、育児は親だけでなく、時代も行っているんだ。文化も育児をしている。環境も、育児をしている。子どもが電車好きになった責任は、私にもあるかもしれないが、時代にも文化にも環境にもある。みんなで育児をしているから、個人にはコントロールができない。

 責任という言葉から、私がもうひとつ強く想起するのが、戦争だ。

 戦争責任はどこまでなのか、という問いはずっと議論されてきたことだ。戦争を知らない世代にも戦争責任はあるのか。戦争責任を感じる場合は、どのような行動を取るべきなのか。

 戦争が終わったときに、軍の司令部だけに責任があると庶民は責めたが、軍だけが戦争をしたわけではない。庶民も行った。時代が、文化が、環境が戦争をした。戦争が始まったとき、確かに個人には止められなかった。庶民にはどうすることもできなかった。でも、責任は庶民にもあったはずだ。時代や環境を作っているのは、庶民だからだ。そして、その当時には生まれていなかった私にも戦争責任はあるように、私としては思っている。

 そう考えて、責任というのは、ひとりで負うんじゃなくて、みんなでふんわりと負うのが良いのではないかな、と思った。

 謝らせるために「責任」という言葉を使うのではなくて、他人と手を繫ぐために「責任」という言葉が使えたらいいなあ、と考えた。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

<第2回に続く>

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