特別試し読み第1回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

更新日:2022/1/14

育児の責任感はどこから来るか 白岩玄

ミルクとコロナ
イラスト:白岩玄

 子どもが産まれたときに、ぼくは「お母さんには敵わない」とか「母はすごい」とかいう言葉は使わないようにしようと決めた。母親になった女性を尊敬して白旗をあげるのは、一見、女性を持ち上げているようで、育児を女の人任せにしてしまいかねない。だから「母性」という言葉も頭から消した。もともとそういうものが明確に存在すると思っていたわけでもないのだけれど、とにかく母親には育児をするための能力がもともと備わっているという考えを捨てなければ、自分がそこに甘えてしまうような気がしたのだ。

 去年、三十三歳で父親になった。今、家には八ヶ月の息子がいる。四つ下の妻は現在は働いていないが、もともと海外の大学院を出て、仕事をしようとしていたときに妊娠したため、子どもが一歳になったら、また働きに出たいと言っている。

 冒頭に書いた決めごとは、今でもちゃんと守っている。育児負担の割合で言えば、妻の方が高いのだけど、ぼくが家で仕事をしていることもあり、オムツ替え、着替え、昼の散歩、お風呂、離乳食、爪切り、鼻くそ取りにいたるまで、自分にできることはやれる限りやっている。家事についても、うちは完全に分担制だ。料理は妻、掃除はぼくと分けて、洗濯は手の空いた方がやるようにしている。

 ただ、「育児を妻任せにはしないぞ!」と意気込んで子育てを始めた割には、ぼくはどうやら、育児は妻がやるものだという考えを捨てきれずにいるらしい。

 たとえば、夜中に息子が泣いて起きても、ぼくはあまり気がつかない。いや、妻によると、気づいてはいるようなのだが、まるでうるさいと言わんばかりに、布団をかぶって背中を向けてしまうそうだ。さすがにちゃんと目が覚めたときは、ぼくも夜泣きの対応をすることがあるけれど、頻度で言えばたぶん十対一くらいの割合だ。

 それから、妻は美容室に行くときも、ヨガに行くときも、たいてい申し訳なさそうにしている。「ごめん」とか「お願いします」としきりに言うのだ。でも、ぼくは散髪に行くときも、カフェに仕事に行くときも、ごめん、だなんて思うことはない。時間が長くなれば「一人で大丈夫かな」と心配にはなるが、妻のように、子どもを預けることに罪悪感を持つことはほとんどないのは、要するに、ぼくは意識の奥底で、育児を自分の管轄ではないと思っているのだろう。

 もちろん、今は妻が働いていないのだから、カフェに仕事に行くときくらいは、謝らなくてもいいのかもしれない。でも、うちは子どもが一歳になったら、共働きになる予定なのだ。となると、このままではマズいよなと思う。もし妻がキャリアアップのために、もっと仕事に時間を割きたいと言ってきたら、ぼくは今のところ、快く「いいよ」と言ってあげられる自信がない。

 でも、どうして妻がやるものだと思ってしまっているのだろう?

 自分でも、それが不思議ではあるのだ。

 うちには十歳の犬がいるのだが、その世話はぼくが完全に一人でやっている。もともとぼくが飼っていた犬というのもあるが、ご飯をあげるのも、散歩に行くのも、病院に連れて行くのもすべて自分だ。たまに仕事が忙しくて、妻に散歩に行ってもらうこともあるが、そのときはすごく申し訳ない気持ちになるし、毎回心からありがとうを言う。

 思い返してみれば、そんなふうに何もかもを自分でやらなければいけないと思い込むようになったのは、犬を飼いだした最初の数ヶ月があったからかもしれない。初めて犬がうちに来たとき、犬はまだ何のしつけもされていない、生後三ヶ月の子犬だった。当時は実家に住んでいたのだが、家族が犬に慣れていなかったため、ぼくは自分の六畳の部屋で、毎日犬と二人っきりで過ごしていた。朝六時に「ケージから出せ」ときゅんきゅん鳴かれて起こされ、ご飯をあげたあとは、ひたすら遊んで、犬が疲れて眠るまで付き合うのくり返し。うちの犬はジャックラッセルテリアという、とにかくやんちゃな犬種なので、じゃれつき方も激しくて、手も脚もがぶがぶ嚙まれるし、犬の乳歯はとがっているから、すごく痛い。おまけにトイレトレーニングができるまでは、部屋中のあちこちにおしっこやうんこを垂れ流される。そんな生活が、誰の手助けもなく、毎日のように続いたのだ。ぼくは本当に育児ノイローゼになりかけたし、どうにかそれを脱するために、自分で育児ノートまでつけて、その大変な時期を乗り切った。

 でもそのおかげで、ぼくは犬の一生分の世話を引き受けようと思えるほどの、強い責任感を持つことができたのだ。だから、たぶん人間の育児も、そんなふうに「一人で背負い込む時間」を経験すると、この子は自分が見なければいけないと思うようになるのだろう。

 実際、妻に訊いてみると、彼女は妊娠中にその時間があったそうだ。赤ん坊を産みさえすれば、ぼくや自分の母親が助けてくれるだろうけど、とにかくこの子をちゃんとお腹の中で育てて、無事に外に産み出すのは私にしかできない、とずっと気負っていたらしい。

 おそらく多くの母親たちは、この「一人で背負い込む時間」に、育児に対する責任感を植え付けられるのだと思う。その時期は人によって違っていて、妻のように妊娠中に背負い込む人もいれば、出産後に誰にも助けてもらえなくて、すべてを抱え込んでしまう人もいる。

 ということは、やはり、ぼくも、自分一人が育児をやるしかない状況に一度身を置いた方がいいのかもしれない。妻にしばらく実家に帰ってもらうとかして、荒療治すれば、もう少し本当の意味で、妻と育児を分担することができるだろうか?

『ミルクとコロナ』「before corona」より

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