特別試し読み第4回/『ミルクとコロナ』白岩玄・山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/6

恥ずかしいことがあるからこそ 白岩玄

ミルクとコロナ
イラスト:白岩玄

 山崎さん、『たてがみを捨てたライオンたち』の感想、ありがとうございました。アイドルオタクの幸太郎の話は、ぼく自身もオタクではないからこそ、ちゃんと書けているかどうか不安があったのですが、山崎さんが「私はそのとき初めて、アイドルとファンの特別な関係を知ったのだと思う」と書いてくださっていたのが嬉しい限りでした。小説の中でも感じてもらえたと思うのですが、逃避というのはどんな人にでも与えられるべきものだと思います。世知辛い世の中を生き抜くために、息子にはうまく逃げる技術を身につけてほしいと思う今日この頃です。

 さて、自分の仕事をどう伝えるか、ですが、以前打ち合わせの席でお伝えしたように、ぼくは今でも「特に伝えなくてもいいかな」と思っています。ただそのときは、なんとなく感覚で答えたので、今回なぜそう思うのかを具体的に考えてみます。

 

 自分の仕事を、なぜ息子に伝えなくてもいいと思っているのか。まず思いつくのが、ぼくはもともと性格的に、何かを堂々と公表するのがあまり得意ではない人間だということだ。たとえば初めて会った人に仕事を訊かれると、ぼくはいつも「文筆業です」と曖昧に言ったり、もっと適当でもいいときは「出版関係です」とひどく大雑把な言い方をしたりする。なんというか、「作家」や「小説家」といった肩書きを口にするのが、ちょっとたいそうに思えて、気恥ずかしくなってしまうのだ。だから息子に対しても、訊かれたら「文章を書く仕事だよ」と答えるくらいのことはするだろうが、「お父さんは作家なんだよ、小説家なんだよ」と自信を持って伝える自分は、正直まったく想像できない。なので、訊かれない限り答えないし、訊かれてもあまり時間をかけて説明はしないだろう。いつか息子が大人になったら、自然と理解するだろうというのが、ぼくの今のところの考えだ。

 とはいえ、これは作家という「職業」についてのことであって、ぼくが仕事の中で考えたり書いたりしていることにかんしては、意識的に言うかどうかはともかく、折に触れて口にすることになるだろうなとは思っている。冒頭にも出てきた『たてがみを捨てたライオンたち』という小説は、男性にとっての男らしさを問い直す話なのだが、ぼくがそういったことに関心や考えを持っている以上、息子はどうしたってぼくのその思想に触れることになるだろう。山崎さんが前回書いていたように、ぼくは家事や育児を妻に任せきりにするつもりはないし、「男には仕事しかないんだ」という考えを、できるならば息子に植え付けたくないと思っている。なので、そういう意味では自分の仕事を息子に伝えることにそんなに抵抗がないというか、「君がどう思うかは自由だけれど、お父さんはこう考えているよ」と話すことはあると思う。

 そしてもうひとつ、妻の仕事については、自分の仕事以上に息子に伝えたいという勝手な思いがある。あまり詳しく書いてほしくないと本人が言うので、はっきりとは書かないが、妻は様々な国の人と関わる仕事をしていて、いろんな文化や宗教を持つ人たちと日常的に接している。そのほとんどは、ぼくが国名だけしか知らないような人たちで、そういう大国ではない国の人たちに目を向けて、日々自分にできる仕事をしている妻のことをぼくは心から尊敬している。だからなるべく息子にも、ニュースではあまり取り上げられないような国の人たちにも目を向けられる人になってほしいし、世界には本当に多種多様な人たちが暮らしているんだということを知ってほしい。

 さて、前回山崎さんが、子どもや周囲から自分の仕事が恥ずかしいと思われてしまうかもしれない可能性や、AV女優などの一部の職業に対する偏見について書いていたが、これはぼくもちょくちょく考えることなので触れておきたい。

 作家は人に見られる職業で、人によっては作家名や作品名を聞いたときに「あぁ、あの人か」と言われることがある人生を生きている。特にぼくなんかは、デビュー作がテレビドラマ化されたおかげもあって、二十代半ば以上の人だと作品名だけは知ってくれている人も多い。とはいえ、大きなヒット作となるとそれだけだし、未だに作家名だけではすぐにはわかってもらえない現状に満足しているわけではない。こうした状況が今後もずっと続いた場合、将来的に息子がどう思うんだろうなというのは、ときおり気になることではある。黙っていても、ぼくが作家としてどんなものを書いて、世間的にどういった評価を受けてきたかは、ネットで調べれば簡単にわかってしまうのだ。そのことが原因で、周りの人間から何か嫌なことを言われるかもしれない。

 この、インターネットの普及による「親の人生のデータベース化」は、昔はなかった問題だ。それにこれは、ぼくのように表に出る仕事をしている人だけが気にすることではない。現代ではSNSやブログで自ら発信していたり、何らかの形でメディアに取材されたり、法に触れるようなことをして一度でもネットに載ってしまえば、その記録は半永久的に残ってしまう危険性がある。以前、子どもたちのあいだで、自分の親の名前をネットで検索しあうという遊びが流行っている話を聞いたことがあるのだが、そういうことが実際に起こり得るのだから、現代は良くも悪くも、親が人生でしたことを、子どもが引き受けなければならない時代になったわけだ(もちろん、逆もしかりだが)。

 じゃあ、そんな状況の中で、親になった人間はどうすればいいのか。山崎さんは堂々としていた方がいいのではないかと書いていて、たしかにそうできたら理想だなとは思ったのだが、性格的なものなのか、あるいは単に覚悟が足りないだけなのか、ぼくはやはり、どうしても堂々とすることができない。頑張って胸を張ったとしても、すぐに疑心暗鬼になって「他人にわらわれたり、後ろ指をさされるかもしれない」という不安が頭の中に広がってしまう。そしてたぶん、こういう「強くなりきれない人」はぼくだけではないと思うのだ。自分の仕事や過去の行いに胸を張れない人は少なからずいるだろうし、普段は堂々としている人だって、ときには嘲笑や偏見に心が折れそうになったり、子どもに申し訳なくて、自分のこれまでの人生に価値を感じられなくなることもあるだろう。

 ただ、賛同できない人もいるかもしれないけれど、ぼくは親が子どもにあまり知られたくないと思うような何かを抱えているのは、そんなに悪いことではないのではないかとも思っているのだ。これは持論だが、ぼくは人間というのは、恥をかいた回数が多いほど、他人に対して寛容になれると思っている。痛い目にあったり、思うようにいかなかったりすることによって、人は様々なことを学ぶし、自分の許容範囲も広がっていく。それなら、子どもの成長を見守る親でいるためには、そうした経験がほとんどないよりかは、いくらかでもあった方がいいのではないだろうか。何より子どもが大きな失敗や挫折を経験したときに、自分の中に恥ずかしいと思うところがひとつもない親が、どうやってそれを受け入れたり、味方になったりすることができると言うのだろう?

 決して立派とは言えない過去が有用なのではないかと説くのは、失敗の多い自分の人生を肯定したいだけかもしれない。ひょっとしたら恥ずかしいと思うところなんて何ひとつない人の方が、「まともな子育て」ができるのかもしれない。だとしても、ぼくはやり直せるわけではない人生を生きながら、自分にできる限りの子育てをしていくしかないのだ。そしてその結果、息子が「お父さんの人生は格好悪い」という評価を下すなら、それはもうしょうがないし、受け止めるしかないと思っている。

 でもまぁ、ネットで親の名前を検索する遊びは流行らないでほしいなぁ。

『ミルクとコロナ』「before corona」より

<第5回に続く>

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