姉が家で見つけた真実。父さんと「おもちゃん」の過去が、ついに明かされる。 浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【6/6】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/18

浅倉秋成さんの最新作『家族解散まで千キロメートル』(略称:家族千キロ)が3/26に刊行されます。
教室が、ひとりになるまで』では高校のクラスに隠された〈嘘〉を暴き、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動の〈嘘〉に切り込んだ浅倉さん。最新作は、「高校」「就活」に続く人生の転換期「家族」を題材とし、そこに埋め込まれた〈嘘〉の謎を解き明かします。
発売に先駆けて、衝撃の1行で終わる95ページまでを特別公開! 
二度読み必至の仕掛けが潜む、驚愕と共感のどんでん返しミステリをお楽しみください。

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浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【6/6】

いえ

「……何これ」
 あすなは囁くように言うと、元子供部屋の壁から手を離した。そして確かめるように再び壁を押さえる。また手を離す。それを三度ほど繰り返す。ほんのわずかであったが、その壁には遊びがあった。手で触れる度に微かに木と木のこすれる音がする。
「開きそう、ですよね?」
「……信じらんない」
 父さんと母さんがこの家を購入したのは、今から四十年以上前─一九八四年の春に遡る。山梨県都留市に建つ平屋建ての空き家は、当時すでに築十年以上が経過していた上に脆弱な造りをしていた。内壁は薄く、柱は細く、玄関は歪んでいた。しかし財力に乏しい夫婦二人に贅沢を言う余裕はなく、内見をしたその日のうちに購入を決意した。最初の間取りは倉庫つきの1LK。風呂はあったがトイレは屋外。夏は暑く、冬は寒い家だったが、雨風を凌ぐことはできた。
 最初の改築を決意したのは、母さんの妊娠がわかった一九八八年。後に惣太郎と名づけられる長男が生まれてくるまでには、もう少しまともな家にしようと夫婦で話し合い、近所に住む大工に相談を持ちかけた。美観にさえこだわらないなら金額は相当に落とせる。了承すると、大工は他の現場で余った端材などを中心に、なるべく金をかけない方向で改築を進めてくれた。居間は残しつつ、とりわけ劣化の酷かった西側を作り直す。それまで庭だった箇所に建物を延長し、新たに部屋をひとつ増やした。相変わらずトイレは屋外のままであったが、間取りは2LKに拡大された。居間と隣の部屋との間に意味のない空間ができてしまったのは、このときであった。
 基礎を壊していいなら綺麗な部屋にできるが、大がかりな工事になるので勧めはしない。
 蓄えも少なく、子育てにどれほどの費用がかかるのかもわからぬ二人は、言われるまま安価な工事を採用した。結果、居間から覗く欄間の向こう側は、眺めることはできるが立ち入ることはできない奇妙な空間に変貌した。しかし生活に支障をきたすわけではない。新たにできた部屋を惣太郎のための子供部屋とし、夫婦は謎の空間のことは忘れて過ごした。
 二度目の改築は二人目の子供、あすなの誕生と共に執り行われた。空間的な問題もさることながら、それ以上に台所と風呂の老朽化が顕著であった。水回りを一新し、トイレも家の中へと移動させた。狭いながらも二階部分が誕生し、これにて間取りは現在の4LKになる。

 あすなは壁を上下左右に揺らすと、いよいよ横滑りすることに気づいた。引き戸だ。わずかに開いた隙間に手を差し入れると、襖ほどの大きさの薄い壁が、するすると横にずれていく。
 あすなが今日までこの引き戸の存在に気づけなかったのも無理のない話であった。
 そもそもあすなをはじめとする多くの人間が、元子供部屋であるこの物置を使用しない。冷暖房器具などの季節家電も収納されていたが、基本的にはごみ捨て場のような扱いを受けていた空間であった。貧乏性ゆえに捨てられないもの。いち早く廃棄したいのだが処分するためには面倒な手続きと費用が必要とされそうなもの。そういった品々を見ずに済むよう、都合よく忘れたことにして放置できる場所こそがこの物置であった。何か強い目的意識がない限り、この部屋に入室しようとさえ思わない。
 また数日前まで引き戸の前には古い畳が立てかけられていた。たまたまではなく、父さんの手によって意図的に立てかけられていたのだが、あすなは知る由もない。引っ越し直前で部屋が整理されていた今だけが、引き戸の存在に気づくことができる数少ない好機であった。
 あすなが力をいれると、引き戸は音もなく開く。
 全開になると、滞留していた空気が埃とともに動き出し、目の前を新鮮な空気がとおり抜ける。同時に珠利が悲鳴をあげた。
 大声で叫んで物置側へと戻り、あすなの後ろに隠れると咄嗟に謝罪の言葉を述べた。あすなは驚かせてすまないと詫びてから、しかし何もそこまで驚く必要はないだろうとすぐに苦言を呈する。
「……大きな声あげて、ごめんなさい。いきなり目が合って、びっくりしてしまって」
 あすなは目の前にあった招き猫型の貯金箱を掴んだ。惣太郎が上京する直前まで使用していたもので、往時は底気味悪い目つきがしばしば幼かったあすなと周を怖がらせた。あすなは貯金箱の位置をずらすと段差に足をかける。物置側と、隙間部屋との間には五十センチほどの高低差があった。改築前の土台が影響した関係で、隙間部屋のほうがわずかに高くなっている。
「こんなことだろうとは思ってたけど」
 あすなはため息をつくと、欄間へと顔を近づけた。居間よりも隙間部屋のほうが高い位置にあるので、背伸びをしたり踏み台を用意したりといった必要もなく、簡単に向こう側を見渡すことができた。覗けば当然、彫刻の隙間から居間が見える。
「よくもまあ、こんな……」
 あすなは視線を隙間部屋へと戻し、室内をぐるりと見渡した。
 もともとからして部屋として活用される想定ではない、居間と物置との間にある死んだ空間であった。奥行きは三メートルほどあったが、幅は八十センチ程度しかない。まさしく鰻の寝床。天井照明はないものの、欄間からも北側の壁にある小さな窓からも光は差し込んできており、室内は十分に明るい。
 そんな隙間部屋には所狭しと段ボールが積み上げられていた。三日後に利用する引っ越し業者の段ボールで、すべての側面にマジックで「大月」と記されている。すなわち、すべて父さんと母さんの引っ越し先に運ばれる予定の荷物だ。
「ここに荷物を詰めてたわけだ。どうりでお父さんの私物もほとんど見当たらない」
 狭い室内に人が二人も入れば大いに窮屈であった。遠慮した珠利は物置側に留まり、あすなの様子をちらちらと窺う。
 あすなは、まだ封のされていない段ボールに手を伸ばすと、上部に入っていた書籍を取り出した。水色の表紙の、A4サイズの教科書。あすなは不意に小さな声を洩らすと、呆れたような苦笑いを浮かべた。
 それは、あすなが小学生のときに一時期だけ使用していた、書道教室のテキストであった。さらにその下には、弓道で使用する矢筒も入っている。こちらもあすなが、かつて使用していたものであった。
「……どうしてこんなもの」
 あすなは書道のテキストを手に取り、まるで質感を確かめるようにぱらりと捲る。紙面の間から漂う埃のような独特の臭気が、二十年以上前の記憶を呼び起こす。

 あすなが書道に興味があると言い出したのは、彼女が小学二年生の夏の日であった。
 母さんはどうせ毛筆の授業が来年から始まるのだから我慢したらどうだと言ったのだが、あすなは一度言い出したら聞かなかった。どうしても書道がやりたい。まだネット環境の整備されていなかった当時は、教室を探すのも簡単ではなかった。周囲につてのある人間がいないとなれば電話帳に頼るしかない。
 三駅先の谷村町に一軒だけ、書道教室がある。母さんが電話を入れると、いつ来ても構わないと言われたので、早速翌日から通うことになった。道具は貸してくれるとのことだったので、手ぶらで電車に乗り込む。あすなはすでに一端の書家にでもなったような気難しい表情で座席に座ると、目的の駅に到着するまでひたすら指で太ももの上に文字を書き続けた。
 書道教室は毎週土曜日、午後二時から三時の一時間。四週通ったあたりで、いい加減教科書と道具が必要だと言われ、なるべく安価なものを購入した。そこからさらに五週ほど通ったところで、しかしあすなは唐突に書道に対する一切の興味を失った。
 違った。
 何が違ったのだと母さんが尋ねると、あすなはとにかくすべてが違うと訴えた。後にわかることだが、あすなが書道に興味を持ったきっかけはテレビ番組で紹介されていたアート作品であった。黒の墨だけではなく様々な色を用い、ときに絵を添え、形を大きく崩して躍動感のある字を書く、芸術としての価値に重きを置いた作品。文字どおり型破りな作風を求めていたあすなにとって、正しい姿勢、筆の持ち方、美しい楷書体などを覚える作業はすべて興味の外にあるものであった。
 違うから、もういい。
 きっぱりと言い放つと、あすなはこの日を最後に書の道を諦めた。
 弓道に挑戦してみたいと言い出したのはそこから二年後の秋、あすなは小学四年生になっていた。またも電話帳に頼ると、小学生を預かってくれる教室は甲府にしかないことがわかる。県内ではあるものの、電車で片道一時間半。それでも本当に通うのかと母さんが問えば、距離など関係ないと胸を張り、あすなは早足で電車へと乗り込んだ。そして甲府までの車内、ひたすら目を閉じて、精神統一を試みた。
 もういいからやめる。
 通い始めてから三カ月。教室を出るなり、あすなは迷いなく言い切った。
 あすなが弓道に興味を持ったのは、やはりテレビ番組がきっかけ。私もやってみたいと思ったのは、しかし私もこんなふうに気持ちよく弓を引いてみたいと思ったからではなかった。弓を地面に対して水平に持って引けば、正確性も、矢の威力も、格段に増すはず。独自の分析に基づいた仮説を検証するため、どうしてもあすなは本物の弓矢に触れてみたいと願った。なぜみな、同じ射法しか試さない。私が革命を起こしてやるから、刮目して見よ。半ば道場破りに近い気持ちで通い始めたあすなは、いつまでも大人しく指導を受け続けていられなかった。
 あすなは中学では陸上競技に精を出し、高校では友人たちとの軽音楽に励み、卒業すると四年制大学で英文学を学んだ。新しいものに次々に手を出す割に熱中する気配がない。いったいどこに就職するのだろうと家族が興味深く動向を窺っていると、もう二年だけ学校に通いたいと言い出した。
 服飾系の専門学校。興味が多いのはいいことだが、それはあまりに節操がないのでは。母さんは遠回しに小言を漏らしたが、例によってあすなの決意は固かった。あすなは宣言どおり専門学校に二年間通うと、アパレル系の仕事に就くことなく現在の舞台美術の会社へと就職した。
 すでに働き始めてから八年が経っている。辞める気配はないどころか、結婚相手まで職場で見つけたのだから天職である。
 あすなは飽き性ではなかった。ただこだわりが強い故に、どうしても自身の肌に馴染むものを見つけるまでに時間がかかってしまう。書道から現在の舞台美術の仕事に至るまで、彼女は一度だって手を抜くことはなかった。真剣に自分の人生と向き合っているからこそ、次から次へと自身のステージを変化させてきた。
 多くの人間は、これという道を見定める前に、歩くことに疲れてしまう。あすなは万人が得がたい才能を持った、ひときわ実直な人間であった。

 あすなは書道教室のテキストをそっと段ボールに戻すと、隙間部屋の南側へと目を向けた。
 北側には段ボールが積み上げられている一方で、廊下に面した南側には天井まで棚が伸びていた。ずらりと並んでいるのは何冊もの手帳と、スケッチブック。あすなは試しにスケッチブックのうちの一冊を手に取る。ぱらぱらと捲ってみれば、次々に現れるのは、風景画。この家で最も芸術に明るいのはあすなであったが、あすなが描いたものではなかった。もとの位置に戻すと、今度は手帳を見つめる。
 その数三十冊以上。文庫本ほどの大きさの手帳の背表紙には、例外なく父さんの字でタイトルと数字が振られていた。一番左は「行きたいところ1」、一番右は、「行きたいところ33」。あすなは迷わず最も大きい数字の振られた33番を手に取ると、中身を改めた。
 だらしない人間の割に、字だけはうまいのが父さんであった。手帳にはまず行ってみたいと思った地名が記され、続いて行ってみたいと感じた理由が書かれている。滋賀県沖島、琵琶湖の中にある有人島。展望台や資料館アリ、興味深い。台湾九、有名アニメ映画の舞台のモデルとも言われている地域。景観ヨシ。スケッチにも適する。思いつくままに記されたメモは、手帳の中盤辺りで途切れている。あすなは、最後に記されていた地名を確認する。
 岩手県鶯宿温泉、五百年近い歴史アリ。農場、田沢湖なども近い穴場。
「お父さんの居場所がわかった」
 あすなは手帳を閉じ、表紙を人差し指の爪でぱちぱちと二度ほど弾くと、
「二十年前の『おもちゃん』のこと、わかる?」と尋ねた。
「……おもちゃん?」
 珠利が物置から探るような声を出すと、あすなは少し申し訳なさそうに首を振った。珠利はしばらく困惑していたが、質問の意図を理解するとごめんなさいと頭を下げる。あすなは言葉を選び直した。
「……惣太郎が二回目って言ってた件。二十年前、今回と同じように倉庫の中に盗品がしまわれていたことがある。そのとき倉庫に入れられていたのが、『おもちゃん』って名前の人形。ここから歩いて十五分くらいのところにあった、おもちゃ屋さん、『ショップ栗田』のマスコットキャラクター」
「……盗んで来ちゃったんですか?」
「そう」
「お父さんが?」
 あすなは黙り込んだ。二十年前のあの日を思い返せば、返事をするのは簡単ではない。しかしここで黙り続けるわけにはいかないと判断し、沈黙が不可解な長さにまで延びない頃合いで、
「そう」と返事をした。
「……どうしてそんなことを?」
「誰にもわかりっこない。ただ─」
 あすなは振り返り、珠利のことをまっすぐに見つめた。
「そのおもちゃ屋の店主とお父さんは、不倫をしていた」

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

家族解散まで千キロメートル
著者 浅倉 秋成
発売日:2024年03月26日

〈家族の嘘〉が暴かれる時、本当の人生が始まる。どんでん返し家族ミステリ
実家に暮らす29歳の喜佐周(きさ・めぐる)。古びた実家を取り壊して、両親は住みやすいマンションへ転居、姉は結婚し、周は独立することに。引っ越し3日前、いつも通りいない父を除いた家族全員で片づけをしていたところ、不審な箱が見つかる。中にはニュースで流れた【青森の神社から盗まれたご神体】にそっくりのものが。「いっつも親父のせいでこういう馬鹿なことが起こるんだ!」理由は不明だが、父が神社から持ってきてしまったらしい。返却して許しを請うため、ご神体を車に乗せて青森へ出発する一同。しかし道中、周はいくつかの違和感に気づく。なぜ父はご神体など持ち帰ったのか。そもそも父は本当に犯人なのか――?

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