「いつも通りいない」父を除く全員で、引っ越し準備に勤しむ一同。 浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【2/6】

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/18

浅倉秋成さんの最新作『家族解散まで千キロメートル』(略称:家族千キロ)が3/26に刊行されます。
教室が、ひとりになるまで』では高校のクラスに隠された〈嘘〉を暴き、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動の〈嘘〉に切り込んだ浅倉さん。最新作は、「高校」「就活」に続く人生の転換期「家族」を題材とし、そこに埋め込まれた〈嘘〉の謎を解き明かします。
発売に先駆けて、衝撃の1行で終わる95ページまでを特別公開! 
二度読み必至の仕掛けが潜む、驚愕と共感のどんでん返しミステリをお楽しみください。

advertisement

浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【2/6】

 当然の疑問だなとは思いつつ、僕もすぐには言葉を選べなかった。誤魔化すべきではないとわかってはいたが、可能な限り口当たりのいいまろやかな言葉を見つけたかった。しかし結局は家族になろうとしてくれている人を煙に巻くわけにはいかないと判断し、
「いないんです」と正直に話した。
「それって……」
「あぁ、ごめんなさい。生きてはいるんですけど」誤解を解いてから、いや、死んでいるようなものかと思い直しつつ、「いつも、留守で」
「留守?」
「この家には住んでるんですけど、ふらふら遊びに行っちゃうんです。日帰りだったり、泊まりだったり、日によってまちまちですけど、家にいることのほうが珍しいくらいで。仕事ももう五年以上前に辞めちゃって」
「今日はどちらに?」
「さあ……ほんとに、何も言わないで出て行ってしまうんで。車はあったんで、電車でどこかに行ったんだとは思いますけど」
 僕は炬燵に潜るついでにしゃがみ込み、床の間の脇にある戸棚を開ける。いつもは日用品が雑多に押し込められていたが、引っ越し前なので平時よりはこざっぱりとしていた。僕は寂しそうに置いてある東京ばな奈といちご煮の缶詰めを取り出し、炬燵の上に置く。自由気ままに生きていることへの贖罪なのか、旅行気分を多少は家族にも味わわせてやろうという配慮なのか。父は出先から帰ってくると、この棚の中に必ず当地の土産物を詰めた。
「ここ最近は東京と─いちご煮ってどこでしたっけ?」
「青森じゃないですかね」
「なら、青森に遊びに行ってたみたいです。ほんともう、存在そのものが空気というか、まぼろしみたいな人なんで」
「仙人か、神様みたいな方ですね」
 そんないいものじゃない、貧乏神ですよ。さすがに口にはしなかったが、これ以上喋ればどこかで悪口をこぼしてしまう自信があった。僕は土産物を棚の中へと戻し、この話題を打ち切りたい思いを控えめに表明した。父については考えれば考えるほど、いたずらに虚しさだけが積み上がっていく。まるで存在そのものが、巨額の借金のような人物だ。
 ほっそりとした体に、いつ何時でも眠たそうな力のない目つき。話しかけようにも、はぁ、だとか、へぇ、だとか、気の抜けた言葉しか返してこない。仕事だけは真面目にこなすのが唯一の取り柄というようなこともなく、働かない、動かない、家にいない。失職してすぐに再就職先を決めるかと思いきや、探す素振りを見せつつずるずると無職を続け、やがて六十を超えるとしれっと繰上げ受給で年金を受け取り始めた。その間の家計は、近所の食堂で働く母が支え続けた。
 そしてさらにその上、浮気の前科がある。
 とにかく駄目人間の手本とでも言うべき人物であった。
 犬や猫に本気で説教をする気が起きないのと同じように、家族の誰もが父については諦めていた。駄目なものとして、いないものとして、半ば死んだものとして、存在を忘れたことにして生きている。何せ事実として、父がいないほうがこの家族は健全に運営される。
 興味のない駅伝を見続けるのがいい加減苦痛になりかけていた頃、不意に遠くから怪物の唸り声のようなものが響き始めた。車のエンジン音だと気づいた瞬間、誰がやってきたのかも自ずとわかる。
 僕は敢えて気づいていないふりを続けていたのだが、庭に出ていた母の声に釣られて廊下へと向かう。窓から外を覗くと、真っ黒なBMWが道路にはみ出るような形で止められていた。初めて見る車だったが、おそらくは二人しか乗れないスポーツカー。あまりにもらしい登場に半ば呆れながらも、僕はサンダルを履いて外に出てやることにした。
「……何これ」と、玄関から飛び出してきたあすなも絶句する。
 もったいをつけるようにゆっくりと運転席から出てきた惣太郎は、初めて見る賢人さんに対する挨拶よりも、かけていたサングラスをとるよりも先に、
「八百万した」と車の値段を口にし、モンクレールのダウンジャケットの襟を整えた。
 惣太郎に会うのは昨年の九月以来だったが、この人は清々しいほどにぶれない。もともと大手企業に勤めていた人間であったが、昨年独立起業してからは金遣いの荒さに拍車がかかった。ここまで徹底しているといっそ感心さえしてしまう。
 続いて助手席からは惣太郎の奥さんである珠利さんも降車し、一同に向かって遠慮がちに頭を下げた。聞き取るのに苦労したが、おそらく消え入りそうな声で口にしていたのは、あけましておめでとうございます。僕より一つ若い二十八歳だが、今年成人したばかりと言われても納得してしまいそうなほど幼い顔立ちをしている。数年前までは地下アイドルとして活動していたという話だったが、所属していたグループ名を忘れてしまったので一度も当時の写真を見ることはできていない。たしかキュートなんちゃらというグループだった気がする。
 賢人さんが車を降りたばかりの二人に丁寧に挨拶をすると、
「もう早速、始めたほうがいいんだろ?」と惣太郎は誰にともなく尋ねる。
 母もあすなも答える気配がなかったので、僕が代表して答えた。
「小物はあらかた片づけたんだけど、大きい荷物があるから、早速手伝ってもらえると」
「いよいよ、周の部屋からエロ本が見つかるか」
「エロ本?」と賢人さんが反応してしまうと惣太郎は嬉しそうに、
「こいつ、エロ本とかAV隠すの天才的にうまいんですよ。昔っからどんだけ部屋を探しても出てこなくて」
 惣太郎は僕より七つ年上の三十六歳。いつまで経っても程度の低い下ネタをぶつけてくるところに辟易しつつも、ここで調子を合わせるのが僕の仕事であった。
「出てくるかよ、ばか。こっちはデジタル世代なんだよ」
 放り投げられた下品な話題を手早く処理できないと、惣太郎は調子づく。そして動揺する僕の態度を楽しむように、遠慮なく下品さを加速させていく。やがて堪えかねた母が不機嫌になり、最終的にはあすながいい加減にしろと惣太郎を一喝。例外なく最悪な空気が一家を包む。これまでの人生で何度も経験してきたおきまりのパターンで、僕がうまく立ち回らない限り何度でも同じルートを辿る。
 調整役を買って出ているつもりはない。それでも末っ子なりに、僕は誰よりもこの家族のバランスを気にし続けてきたつもりであった。誰もが怒らぬように、誰もが荒れぬように、誰もが最低限、この家族の中で居心地よく過ごせるように。
 しかしそんな僕の仕事も、あとたったの三日で終わる。
「なら、始めるか」と惣太郎は玄関扉に手をかけながら言った。
 何が始まるのか、今さら確認しようとする人間は一人もいなかった。
 僕らが始めるのは引っ越しの準備。
 一月一日は言わずもがな元日で、僕ら喜佐家にとっては家族解体の三日前であった。

「なら、解体しかねぇだろ」
 惣太郎の物言いは乱暴であったが、実際のところ家族の誰もがわかっていた。それこそが、僕たちが選べる最も現実的な選択肢である、と。
 昨年の盆、思えばきっかけは、僕が婚約者を紹介したいと伝えたことだった。
 あの日の夕食の席には、帰省中の兄だけではなく珍しく父もいた。交際相手がいることは暗に伝えてあったので、誰も驚きはしなかった。二十九歳。そろそろかもしれないなと、少なくとも惣太郎とあすなは予感していたように思う。
 よかったじゃない。最初は祝福の言葉を並べていた母だったが、しかし結婚するということはすなわち、この家を出るということだと気づいたあたりで、やおら渋面を作り始めた。
 父と二人ではこの家を管理できないかもしれない。
 母は独り言の声量でぽつりとこぼすと、悩ましそうに困り顔を作った。僕をこの家に引き留めたい最大の理由は漠然とした寂しさなのだろうが、家の管理という問題は、あながち無視のできない懸念事項であった。
 あすなが半同棲生活を始めてしまっている今、僕がこの家を出れば、残る人間は実質父と母の二人だけになる。四人で住むには狭い我が家だが、還暦をすぎた夫婦が二人で住むにはいささか過剰な大きさではあった。
 じゃあ、家に残るよ。
 母がそんな一言を待望しているのは、あまりに明白であった。すでに結婚してマイホームまで建てている惣太郎は無理にしても、母の境遇を考慮し、僕が婚約者を実家に引き入れる可能性はゼロではない。あすながルール違反を反省して同棲を解消する可能性もある。
 無論、母に同情できないではなかった。三人いた子供が全員巣立ち、ほとんどいないも同然の父と二人きりになるのは愉快な状況ではない。しかしだからといって、どうして僕がこの家に残らなければならない。惣太郎もあすなも約束を破った。僕だけがルールを守りきり、正規の手続きを踏んでこの家を旅立とうとしている。現状を鑑みればどう考えても、あすなが同棲を解消すべきなのだ。そう、思っていたところで、
「私も結婚するから」
 まるで止めを刺すように、あすなが告白した。
 完全に手詰まりの気配が漂ったが、母は藁にもすがる思いで父によきアイデアを尋ねた。しかし父はいつまでもいつまでも一口目に放り込んだ米粒をくちゃくちゃと咀嚼しながら、はあ、そうな、うん、まあ難しいわな、と要領を得ない言葉を吐き出すばかり。誰もが重たい空気を打開できずにいた中で、先の言葉を突きつけたのが惣太郎であった。
 なら、解体しかねぇだろ。
 惣太郎が果たしてどこまで思慮深く言葉を選んだのかはわからないが、その言葉は見事なまでに二つの意味を孕んでいた。推定築五十年以上。姑息的療法でだましだまし延命を続けてきた我が家だったが、いい加減限界を迎えていた。取り壊す他ない。そして同時に、中に住む我々もばらばらになるべきときが来たのだ。中も、外も、解体するしかない。
 母はそこから一週間ほど難色を示し続けたが、最終的には惣太郎の提案を採択することに決めた。
 この家族を、解体しよう。

 黒の油性ペンできゅるきゅると耳障りな音を立てながら、僕は段ボールに八王子と記す。
 僕の新居は、八王子駅から徒歩十分ほどの場所にある2LDKのマンションであった。すでに一週間以上前から住める状態になっている。僕は三日後に引っ越し、婚約者はまとまった休みがとれた二週間後に合流する手はずになっていた。互いの引っ越しが完了した後、正式に婚姻届を提出する予定となっている。
 一方、両親の引っ越し先は山梨県内。大月駅から徒歩六分の場所にあるマンションを借りることに決めた。浦和の惣太郎、甲府のあすな、そして八王子の僕、誰もが帰省しやすい場所にしたいという母の希望を尊重しつつ、将来的には車を運転せずとも生活できる場所を選んだ。家賃は五万。追って母は新たなパート先を探すと語っていたが、貯蓄と年金、それから僕らからの多少の仕送りで、当面の生活は成り立つ目算が立っていた。
 行き先は三箇所にわかれるものの、誰かが引っ越す度に応援を頼む手間を考えると、すべての引っ越しを同日に敢行してしまうのが最善だろうという判断になった。ならば正月休みを使うしかねぇだろ。惣太郎の提案に従い、僕らは一月四日を引っ越し日に定めた。
 周、周。
 微かに聞こえた声に手を止めると、僕は自室の窓から顔を出す。下を覗けば、倉庫の前で惣太郎が気だるそうな表情で手招きをしているのが見えた。隣には賢人さんの姿もある。男手を求めているのだろうと思って駆け下りようとすると、
「全員呼んで。全員」
「……全員って、どこまで含めての全員」
「とにかく家にいる全員だよ」
 面倒な要求であったが、反論を許さない大声で指示されれば理由を尋ねるのも憚られた。僕は歩く度に家中に重たい足音が響く脆弱な階段をゆっくりと下りると、台所で母、物置と化している元子供部屋であすなと珠利さんを拾い、四人で庭へと出た。僕らが現れたのを確認すると、惣太郎は開口一番、
「これ、誰の何」
 どこか気味悪そうに尋ね、倉庫の内部を親指で示した。
 倉庫の中にある照明は小さな白熱球一つきり。日の光が強いせいもあり、外からでは倉庫の内部はもうひとつ正確に視認できなかった。しかしそれでも、僕には惣太郎の言う「これ」の正体がきっとわかるだろうという自負があった。というのも、先週倉庫の内部はあらかた確認していたからだ。
 念のため倉庫の中を確認させてください。ひょっとすると料金に変更が生じてしまうかもしれません。
 およそ一カ月ぶりに再訪した引っ越し業者の希望を聞き入れ、僕は久しぶりに庭の倉庫を開けていた。元を辿れば、この家の先代の所有者が農具の収納用として建てた倉庫なので、こちらも築五十年以上が経過している計算になる。薄汚いトタン小屋だが造りは頑丈。シャッターは少々きしむようになってしまったが、特に大がかりな修理もメンテナンスも必要としないまま、今日まで形を保ち続けていた。
 滅多に入ることがないので僕にとっても半ば未知の領域であったのだが、埃舞う倉庫の内部は、想像していたよりもだいぶがらんとしていた。
 シャッターを開けてすぐ右の棚には、僕らが幼少期に使っていたのであろうボール、ホッピング、一輪車、自転車の補助輪などが半ば廃棄されたような状態で放置されていた。一方の左側には大きな引き出しつきの棚があった。鍵がかかっている箇所もあったが、試しに何個か開けてみると、父がかつて仕事で使用していたと思われる工具や鉄くず、それから木片が見つかった。何かの部品なのだろうが、僕には用途もわからない。いずれにしてもこの倉庫の内部にあるものは、大部分が処分して問題ないものばかりであった。
 新居に持っていくものはなさそうであることを告げると、引っ越し業者は了解しましたと言って去って行った。多分問題はないと思いますが、万一、料金に変更が生じる場合は、後日追って連絡します。
 なので、現在この家族の中では僕が最も倉庫の内部事情に明るいはずであった。いったい惣太郎は何がそんなにも気になるのだろう。先陣を切って倉庫の中に入った僕は、右も左もわからない初心者にゲームの遊び方を教えてやるような気持ちでいたのだが、しかしそれを目にした瞬間、言葉に詰まった。
 倉庫の中央部には、見慣れぬ大きな木箱が、置いてある。
 およそ洗濯機と同じくらいの大きさだろうか。大人でも体を丸めれば悠々入れるであろうほどに巨大な木箱が、なぜかそこには寝かされていた。
「何だこれ……」
「だから訊いてんだよ」
「こんなの、倉庫のどこにあったの?」
 惣太郎よりも先に質問に答えてくれたのは賢人さんで、
「シャッターを開けたときには、もうここに」
 僕の後に続いて倉庫に入ってきた母も木箱を見るなり首を傾げ、あすなも訝しげな視線を送った。どうやら二人とも心当たりはないらしい。賢人さんと珠利さんまで狭い倉庫の中に入り、僕らはしばし無言のまま木箱を見つめた。
 趣は、洋ではなく和。赤茶けているので桐ではなさそうだが、一見して高級だとわかる木材が使用されており、表面は滑らかに、丹念にヤスリがけが施されていた。触らなくともつるりとした肌触りが容易に想像できる。四隅につけられた黒い金属製の留め具にも高級感がある。側面には達筆すぎる筆文字で何事かが記されており、その上落款まで押されている─のだが、ともに掠れておりうまく判読できない。骨董品でも入っていそうな風格のある木箱であったが、しかし我が家にそういった趣味を持つ人間は一人もいない。
 改めて惣太郎は僕、母、あすなの三人に心当たりを尋ねたが、全員が戸惑いの表情で首を横に振る。現在この家に住んでいる人間は、あすなを含めても四人。そのうちの三人に心当たりがないとなれば、木箱の持ち主は自ずと一人に絞られた。
「まあそうだよな─」
 惣太郎は舌打ちを放つと、いかにも腹立たしげに頭をいた。
「こういうのは親父だよ」
 おそらく父が持ち込んだものだろうという予感は、家族の誰もがうっすらと共有できていた。奇行は父のお家芸。出先で買ってきた土産物を戸棚に押し込むくらいならまだしも、引っ越しの数日前にこんなにも巨大なものを手に入れる必要もないだろうに。処分をするにしても、新居に持って行くにしても、追加の料金が発生する可能性は十分に考えられた。何て面倒なことを。僕は濁ったため息をつきながら、
「これ、中身は何だったの?」と尋ねると、
「見てねぇよ」と惣太郎は不快そうに吐き捨てた。「薄気味わりぃから、蓋開ける前に全員ここに呼んだんだよ。ひょっとしたら親父のじゃないかもしれねぇし」
 なら中身を確認してみようかと相談する前に、あすなが木箱に手を伸ばしていた。
 結論を急ぐような乱暴な手つきで四辺の留め金を外し、遠慮なく大きな蓋を両手で掴む。一息に持ち上げようとするも、一人ではうまく持ち上げられない。近くにいた惣太郎が助けるように反対側を掴むと、上質な摩擦がぬるり、ようやく蓋が持ち上がる。中身が覗き見えた瞬間、きゃっと叫んだのは母で、
「いやだいやだいやだ、呪われそうじゃない」と、目を逸らした。
 蓋が完全に取り払われる。
 木箱の中に寝かされていたのは、おそらく仏像であった。
 詳しくないので厳密な呼び名はわからないが、立っている状態の像なので、立像ということになるのだろう。全長ざっと一メートル。仏様なのか、観音様なのか。右手には細長い杖のようなものを持っており、左手には布袋を持っている。アフロのような髪型だと思っていたのだが、よくよく見てみると頭の天辺からは髪ではなく、またいくつもの頭が生えていた。古びており全体的に黒ずんでいたが、おそらくは木製。しかし首飾りや足下の台座には金のようなものがあしらわれており、暗い倉庫の中でも主張控えめに、きら、きらと、細部が輝いていた。
「これ、お父さんが持ってきたの?」とあすなは誰にともなく尋ねる。
「それしかねぇだろ」
 惣太郎はため息をつくと、
「そういえば昔も─」とまで口にしたところで、自重するように口を噤んだ。
 何を言い淀んでいるのだろう。惣太郎らしくないトーンダウンに違和感を覚えた刹那、鮮やかに記憶の暗闇に光が差した。あっ、と、漏れそうになった声を抑えるも、喜佐家の面々全員が、おそらくは見事なまでに同じタイミングで思い出してしまう。表情が陰る。
 考えてみると、木箱を目撃したときからうっすらとしたデジャヴはあった。こんな光景、以前もどこかで見たような。それが惣太郎の沈黙によって、取り返しがつかないほど完璧に蘇ってしまった。
 僕らは今回とそっくりのシチュエーションを、二十年以上前に体験していた。当時どうして父があのような真似を働いたのか、動機は今になってもわからない。父は真意を語ろうとせず、僕らも僕らで父の奇行に薄気味悪さとほんのりとした恐怖を、そして何よりはっきりとした嫌悪感を抱き、コミュニケーションを諦めてしまっていた。
 今回は仏像。
 あのとき父がこの倉庫の中に持ち込んだのは、近所のおもちゃ屋に飾られていた、オリジナルのマスコット人形。
「じょーないじょーない」と母は気まずさを払拭するように、痛々しい空元気で場を取り繕った。「お父さんが帰ってきたら、どうしたいのか訊きましょう、ね」
「ま、そうするしかないか」と、僕も努めて、何も思い出せていないうつけの笑顔を作る。
 いやぁ、しかし、大きいなあ。
 意味のない感想を、独り言にしては少々大袈裟な声量でこぼしながら、僕は誰よりも最初に倉庫を抜け出した。あの忌まわしい思い出からは、家族の誰もが可能な限り距離をとる必要がある。僕らはシャッターを開け放ったまま、倉庫を後にする。

 まだ十二時十分前ではあったが、一度途切れてしまった作業を中途半端に再開するよりはいいだろうという話になり、昼食をとることに決めた。全員でバケツリレーをするようにして台所から色とりどりのおせちを運び、炬燵の上に並べていく。少なくとも僕は空腹であった。しかしいざ食事が始まっても、やはり喜佐家の箸は全体的に動きが鈍い。あすなと母は魚卵と豆類、僕は酢の物、惣太郎は伊達巻きや栗きんとんなどの甘いおかず。それぞれにそれぞれの嫌いなものがあり、かといってどれかが好きということもない。必然、食事のペースも上がっていかない。珠利さんはおそらく生来小食なのだろう。信じられないほどのスローペースで申し訳程度に雑煮だけを啜っている。唯一の救いは賢人さんで、
「どれも素晴らしく美味しいですね。本当に全部手作りなんですか?」
 無理をしているという様子もなく、純粋な気持ちで舌鼓を打ってくれていた。母も日頃見られない新鮮な反応に喜び、次から次へと料理を勧める。賢人さんはさらに食べる。平和な循環が発生していた。
 僕はまだ満たされてはいなかったが、食事を終えたことにして箸を置いてしまった。テレビはいつの間にかNHKに切り替わっており、餅を喉に詰まらせ救急搬送された老人のニュースが伝えられていた。そうだ、我が家でもこれから山ほど磯辺焼きが出てくるのだ。僕はいくらか憂鬱になると、ポケットからスマートフォンを取り出した。部屋の整理をしている間に充電をしたので、バッテリーの残量は三十八パーセントまで回復している。画面に表示されている通知は一件。十分ほど前に届いていたメッセージの送り主は、僕の婚約者だ。
 [現在休憩中。引っ越し準備は順調でしょうか。最後に山梨土産をぜひ]
 言われてみれば、山梨を根城にするのは残り三日ということになる。考えた瞬間、生まれてから今日まで過ごし続けてきた郷土に対する郷愁が初めて寂しさとなって胸を過った。山梨土産。名産の多い地域ではあったが、何を買えば喜ばれるだろうか。
 ぼんやりと答えを探すように画面から視線を上げると、昆布巻きを掴んだまま硬直している惣太郎の姿が視界に入る。口もとを半端に開け放ったままテレビに釘づけになっている。ずいぶんと間抜けな顔だなと思っていると、母も同様の顔をしていることに気づく。力なく口を開け放ち、眉を八の字に垂らしながらテレビを見つめている。
 親子揃って、何をいったい。
 ようやくテレビへと視線を移した僕は、瞬く間に握力を失い、スマートフォンを自身の太ももの上に落とした。もちろん口は閉じられなくなる。ニュースだけが淡々と流れ、それ以外のすべてが静止する。
 テレビ画面上ではどこかで見た仏像のようなものがワイプで表示されており、神妙な面持ちの女性アナウンサーが原稿を読み上げていた。驚きで麻痺していた聴覚がゆっくりと機能を取り戻し、次第に言葉を聞き取れるようになってくる。
「─にある十和田白山神社の宮司、宇山宗泰さんが、一月二日に開催される例大祭の準備のために本殿を開けたところ、安置されているはずのご神体がないことに気づき、警察に通報しました。警察は盗難の可能性が極めて高いと見て、捜査を進めています」
 画面が切り替わり、気難しそうな宮司のインタビュー映像が流れる頃には、居間にいる全員の口もとが閉まらなくなっている。
「【当時の状況は?】本殿開けたらもう、すっからかんだよ。本来はここにあるはずだから、ご神体もそうだし、ご神体を入れる箱もね、本当は向こうにあるんだけど、それもなくなってるから。どっちも盗まれたってことでしょうよ。
【犯人に伝えたいことは】返せ馬鹿ってことだけだよ。(犯人には)バチが当たるよ。確実に当たる。でもまあ、逆に言うとだよ。犯人が反省して無事にご神体を返してくれるなら、私は全部許す覚悟だよ。こっちは、明日の祭をちゃんとやりたいって、それだけなんだから。日を跨ぐまでは信じて待つよ、私は。(ご神体が戻ってきたら)被害届は取りさげるよ。私も男だから。
【盗まれた理由に心当たりは?】お金でしょうよそんなもん。文化財としての価値もあるし、ご神体の台座とか首飾りには金をね、かなり使ってるから、そりゃ売ればいい値段になるでしょうよ。何年か前には近くのお寺さんの仏像も盗まれてたしね、窃盗団みたいなのはそこらにうじゃうじゃいますから」
 インタビューが終わると、画面上には改めて盗難被害に遭ったご神体が表示される。「2015年、一般公開された際のご神体」というテロップがついているそれは、心なしか、少しばかり、というよりもかなり、いや、まさか、そんなはず、そんなはずは。
「これ……」とまず、あすなが呟き、
「いや、ちょっと形が」と母は強ばった顔で楽観を謳い、
「でもかなり、似ていたような」と賢人さんが遠慮がちに返す。
 爆ぜるように立ち上がったのは惣太郎で、そのままつんのめって前転しそうな勢いで居間を飛び出した。遅れて母とあすなも立ち上がり、僕も立ち上がろうかと思ったところでニュースを最後まで見ておくべきかもしれないと妙に冷静になった。情報に何かしらの手違いがあったという可能性も否定はできない。
 しかしニュースは十和田白山神社では例年一月二日に例大祭を開催しており、初詣客も相まって大変な賑わいとなることや、今年は十年に一度のご神体開帳の年であったことなどを伝えるに留まる。仏像や神具の盗難に詳しい専門家の話が始まったところでこれ以上有益な続報はもたらされないと判断し、遅れて居間を飛び出した。残っていた賢人さんと珠利さんも僕の後を追ってくる。
 そんな馬鹿なこと、あるわけがない。
 僕は念じながらサンダルに足をねじ込んだ。こんな訳のわからない話があって堪るかと玄関を飛び出したところで、倉庫の中から兄の雄叫びが聞こえてきた。
「完全にこれじゃねぇかよ! クソが!」
 飛び込むようにして倉庫の中に入ると、惣太郎がトタンの壁面を拳で思い切り殴る。あすなは木箱の横で頭を抱え、母はまるで死体でも見つけたように口もとを押さえている。
「騒ぐ前にまず確認を─」と叫んだ僕の声に被せるように、
「もう確定だよ、どう見てもこれだよ!」と惣太郎は噛みついた。
「今、画像探すから一回ちゃんと見比べて─」
「見なくても、わかるよ! 頭から頭がにょきにょき生えてんだろうが!」
「にょきにょき生えてるのが他にもあるかもしれないだろ!」
 タイムリーなニュースだけあって、スマートフォンで探せばあっという間に記事が見つかり、先ほどテレビ越しに見たご神体の画像も出てくる。確かに一見して似ている。しかしこんな木像、似たようなものがごまんとあるのだ。画面と、木箱の中身、画面と、木箱の中身。僕は瞳を素早く六往復させると、瞬く間に確信に至る。
「……これだ」
「だから言ってんだろうが!」
 色みは実物のほうがいくらか暗いような気もしたが、細部は画像と寸分違わず一致している。ご神体の表情、持っている杖、袋、指先の角度、頭の形状。どれをとっても完璧に、同じ。箱の側面の掠れた文字も、言われてみれば十和田白山神社と読めることに気づいてしまったとき、
「ちょっと待てよ、十和田ってどこだよ」惣太郎が忌々しそうに倉庫内で唸り、
 ひょろひょろとした細い声で母が、
「……青森県」
「おかしいだろ、さすがにそんな遠くから─」
「いちご煮」
 思い出すと同時に口走っていた。僕は居間のある方向を指差しながら、
「……いちご煮、缶のいちご煮あった。戸棚、居間のいつものとこに。父さんの」
 文法は荒れてしまったが、僕の言わんとすることは伝わったようだった。
 一同はみるみる顔色を悪くしていく。一切の言い訳や希望的観測を挟む余地がないことを示すように、倉庫内の空気が重たく滞留していく。
「まただよ」惣太郎は怒りを噛みしめるよう、倉庫の床を睨みつけながら言った。「また親父が盗みを働いて、またあの親父のせいでこっちが割食うんだよ……いっつも俺たちはあの駄目人間のせいで─」
「ちょっと、そういう言い方はやめなさい」と母が諫めれば、
「二回目なんだぞ! 二回目!」惣太郎は指を二本立てて凄んだ。「親父が意味のわかんないもん盗んできて、この倉庫の中に押し込むの! 二回目だよ!」
「まだ盗んだとは─」
「盗んだんだよ! それ以外あり得ねぇだろ! 最悪だ。なんで、あんなやつが親父なんだよ……。あぁ、もういい。もう勘弁だ。あんなやつと血が繋がってるだけでこっちまで害を被るのはもう勘弁。知らねぇよ、知らねぇ。こっちはもう独立も結婚もして、この家族はとっくに卒業してんだよ。なのに、なんで終わった家族のことで割食わなきゃなんねぇんだ。もうあんなクズは─」
 ちょっと待てよ。終わった家族って何だよ。
 聞き捨てならない言葉を拾い上げようと口を開きかけたところで、母が貧血を起こしたようにバランスを崩した。近くにいた賢人さんに支えられるといよいよ足腰に力が入らなくなったのか、ふらふらと後退。そのままシャッターレールを背中でなぞるようにして地面にへたり込む。
「一応、電話してみる」
 あすなはスマートフォンを取り出したが、誰も父が電話口に出るとは思っていなかった。一応携帯電話は持っている。しかし平時だろうが緊急時だろうが、父が電話に出たためしなど一度もないのだ。意味合いとしては、死人に電話をかけているのと同じ。それでも今回ばかりはひょっとすると奇跡が─などと一抹の希望を抱いてしまうのだが、結局あすなは顔を顰めながらスマートフォンをポケットにしまった。
「……出ない」
 どうして、こんなことに。
「いつだよ……いつ盗んだんだよ」惣太郎の疑問に答えるため、僕は頭の中のカレンダーを参照し、
「先週、十二月二十三日の月曜日にこの倉庫を確認したときはなかった。だからこれがこの中にしまわれたのは─」
 十二月二十四日から今日─一月一日に至るまでの九日間のうちのどこか、ということになる。
「外部の誰かが、ここに忍び込ませてしまった可能性はありませんか?」
 賢人さんが口にした仮説はこの上なく魅力的であったが、残念ながらあり得ない。
「鍵、二つもかけてるんです」僕は答える。「備えつけの鍵と、ダイヤル式の南京錠。鍵は電話台の引き出しの中にしまってあるんで、家の中に入らないと取り出せません。それにたぶん、鍵があっても、家の人間以外このシャッターをうまく開けられないんです」
「開けられない?」
「歪んでるんです。ずいぶん前から」
 経年劣化なのだろう。シャッターはいつからか一度強く押し込み、レールの赤錆を避けるように持ち上げ、その上で左端のたわみを正すように細かく揺らしながらではないと綺麗に巻き上がっていかないようになってしまった。父、惣太郎、あすな、そして僕は問題なく持ち上げられるが、母は未だにうまくシャッターの開閉ができない。開け方を知らなければ故障していると勘違いされてもおかしくないほど、我が家のシャッターは堅く、そして重い。
 もちろん、家族から犯罪者が出てほしくないと願う気持ちはあった。しかし父には擁護できない前科があり、あらゆる状況証拠が父の犯行を示唆している。そして何より、僕ら喜佐家の人間は悲しいほどに深く理解していた。父ならこういうことを、きっとやる。
 理由はわからない。あの人の思考をトレースしようとするだけ無駄で、僕らはいつだってあの貧乏神の得体のしれない生態に振り回され続けてきた。
 あの人は、本当に、このご神体を盗んできたのだ。
「……通報しないと」
 地面に座り込んだまま鼻声で呟いた母は、いつの間にか涙で目を真っ赤に腫らしていた。震える手でスマートフォンの操作を始めようとしたとき、
「ちょっ、ちょっと待てよ!」
 叫んだ惣太郎は、スマートフォンをむしりとる。
「家族から犯罪者が出たらどうなるか、一回ちゃんと考えろよ!」
「考えるって、考えてどうなると思ってるの? それにお父さんが本当にこれを盗んでしまったとはまだ限らな─」
「限るよ! 現実見ろって! 無実を信じるのは構わないけど、警察呼んでやっぱり親父が盗んでたってことがわかってみろ。家族全員、あの馬鹿親父のせいで犯罪者の血縁になるんだぞ? とりあえず一回待てよ!」
「だからってあんた、罪を受け容れないでいいわけがないでしょ? お父さんがやったことだとしたら、責任を持って受け止めないと─」
「俺の会社どうなると思ってんだよ!? 親父が犯罪者になりゃ、会社の信用は地に落ち─」
「それは大変かもしれないけど、それを引き受けるのも家族の─」
「周の結婚だってなくなるからな!?」
 不意に指を差された僕は、瞬間的に頭に血を上らせた。
「僕の結婚と、今回のことは何も関係─」
 ないだろ、と口にしようとしたところで、しかし僕は青ざめた。
 惣太郎の言うことが、存外的外れでないと気づいてしまったからだ。

(つづく)

作品紹介

家族解散まで千キロメートル
著者 浅倉 秋成
発売日:2024年03月26日

〈家族の嘘〉が暴かれる時、本当の人生が始まる。どんでん返し家族ミステリ
実家に暮らす29歳の喜佐周(きさ・めぐる)。古びた実家を取り壊して、両親は住みやすいマンションへ転居、姉は結婚し、周は独立することに。引っ越し3日前、いつも通りいない父を除いた家族全員で片づけをしていたところ、不審な箱が見つかる。中にはニュースで流れた【青森の神社から盗まれたご神体】にそっくりのものが。「いっつも親父のせいでこういう馬鹿なことが起こるんだ!」理由は不明だが、父が神社から持ってきてしまったらしい。返却して許しを請うため、ご神体を車に乗せて青森へ出発する一同。しかし道中、周はいくつかの違和感に気づく。なぜ父はご神体など持ち帰ったのか。そもそも父は本当に犯人なのか――?

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322309001298/
amazonページはこちら

特設サイト:https://kadobun.jp/special/asakura-akinari/kazoku1000km/