『宇宙兄弟』弟・日々人は“病気”に立ち向かうことで“成長”した。パニック症(パニック障害)の専門医が本作における症状と治療の描写を解説

マンガ

公開日:2022/7/4

 マンガ『宇宙兄弟』の最新41巻が発売された。「月」を目指す兄弟を描いた本作は、いよいよクライマックスを迎えている。連載開始から14年のなかで、兄弟には、それぞれの大きな紆余曲折があった。

宇宙兄弟
宇宙兄弟』41巻(小山宙哉/講談社)

 本作は、宇宙飛行士になるという夢を諦めて、一般企業で働く兄・六太が、JAXAの試験を受けるところからスタートする。一方、弟・日々人は既にNASAのエリート宇宙飛行士だったが、とある事故がきっかけで「パニック症」を発症してしまい、NASAを辞めることとなる。

 日々人は別の道から再び宇宙を目指すことになるのだが、パニック症に立ち向かい、克服しようとする姿が、時間をかけて、とても丁寧に描かれている。
当初は病気を受け入れることさえできなかった日々人だったが、苦しみながらも、仲間に助けられて地道な治療を続ける。その姿が、苦しそうでありながらも力強く、読者に勇気を与えてくれるように感じるのだ。

 本作におけるパニック症の描写を深く知ることで、日々人の苦難や感情を、より理解することができるのではないだろうか。
そこで本記事では、パニック症の専門医である、医療法人和楽会理事長・貝谷久宣先生にお話を伺った。

『宇宙兄弟』におけるパニック症の描写を見ていただくと、綿密な取材をした上でとてもリアルに描かれていることがわかった。作品内の描写を追いかけながら、日々人の「努力」と「想い」を知ってほしい。

※本記事は、作品の内容を含みます。ご了承の上、お読みください。

advertisement

――本日は『宇宙兄弟』の展開を実際に見ていただきながら、パニック症の描写について解説していただきたいと思います。よろしくお願い致します。

貝谷医師:はい、よろしくお願い致します。

――さっそくですが、まず日々人がパニック症になったきっかけを見てください。月面での活動中に「酸素が供給されない」という事故が起ります。無事に生還をするのですが、これ以降、宇宙服を着たときに、息苦しさなどの発作が起きてしまうんです。

貝谷医師:これはまさにパニック症の症状だと思います。彼の場合、宇宙服を着ることが条件刺激となり、事故の恐怖や苦しさを思い出すという条件反応が出ています。思い出したのをきっかけに、息苦しさなどの身体症状が出てくるんです。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――事故のときと同じ宇宙服を着ると身体が反応して、事故の息苦しさが反芻されると。

貝谷医師:そうですね。宇宙服はトラウマを思い出すトリガーになっているように見えます。パニック発作は本当に苦しいですから「また同じ症状が起ったらどうしよう」と不安になるんですね。その不安が、またパニック発作を誘発するんです。これは「予期不安」といって、典型的なパニック症の症状です。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――パニック発作が出た後、地球に戻って、宇宙服を着て大丈夫かどうかのテストをします。水の中に潜って宇宙と似たような状態を作り出すのですが、それだけでも発作が出てしまいます。

貝谷医師:宇宙服を着ただけで発作が起きるのは、まさに予期不安ですね。実はパニック症って、パニック発作自体よりも、予期不安がメインとなる症状なんです。

――予期不安について、もうすこし一般的なシチュエーションで説明していただけますか?

貝谷医師:たとえば、はじめてのパニック発作が満員電車のなかで起きた人がいます。その日以降、電車自体がパニック発作を引き起こすのではなく「満員電車に乗ったらまた発作が起きてしまうんじゃないか」という予期不安が、発作を引き起こすんです。

 そうすると、電車に乗ること自体が怖くなり、生活に支障がでることがあります。パニック症で通院している人の多くは、発作自体は出なくても、こうした予期不安によって大変な思いをしているんです。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

「パニック発作」と「予期不安」

――ここでちょっと作品から離れてお伺いしたいのですが、そもそも、どういった症状を「パニック症」というのでしょうか?

貝谷医師:パニック発作は、息苦しさや動悸、めまい、ふらつき、吐き気で「このまま死ぬのではないか」という恐怖に襲われることが多いです。よく「現実感がなくなる」という表現がされることもありますね。

――「予期不安」の仕組みについても、詳しく教えてください。

貝谷医師:心臓がドキドキする、息苦しい、暑い、眩暈がするといった身体症状に気付くのが「自分への合図」になります。その瞬間から「もっと苦しくなったらどうしよう」という不安に取りつかれて、身体症状がさらに悪化するんです。

パニック症

――「不安」というのは精神的なものだと思うのですが、実際に呼吸が荒くなったり、動悸がしたり、身体に影響があるのはどうしてでしょうか?

貝谷医師:不安には、身体的不安と精神的不安があります。不安というのは、自律神経と密着しているんです。自律神経は血管を巡っています。予期不安が強くなると、血管を巡る自立神経のバランスが乱れて、血管がキューッと小さくなったりします。それで動悸や息苦しさが実際に身体に現れます。

――本編にも「ドッドッて自分の動悸が聞こえてくる」っていう描写があります。

貝谷医師:これは交感神経が高ぶって、心悸亢進した状態です。息苦しさが高まって、意識が朦朧とすることもありますね。この症状に苦しむ人は多いと思います。

※心悸亢進
心臓の鼓動が強くなり、心拍数が増加した状態のこと。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――症状が悪化すると、仕事や学校生活にも影響がありますよね。

貝谷医師:もちろん、ものすごくあります。
「あの駅でパニック発作が起きたから、もうあの駅には絶対にいけない」と、通勤通学ができなくなってしまうとか。そういう人はたくさんいます。

――作中で「俺みたいに神経質な奴がなるもんだと思っていた」というセリフが登場します。この発言をしたのは兄の六太で、彼は自分の言う通り神経質なキャラクターとして描かれています。一方で、日々人はどちらかというと大雑把な性格なんです。

貝谷医師:たしかに、神経質な人がなりやすい病気だと思います。神経質というのは、自分自身の不調に気付きやすい人です。几帳面にやっていかないと自分に害が起こるんじゃないかという、自己防衛能力が強い人は、やっぱりかかりやすいと思います。

 でも、あくまで傾向なので「こういう人は絶対にかからない」ということはないんです。

「成功体験を積み重ねる」という治療

――予期不安や発作に苦しむ人を救うために、先生のようなパニック症のお医者さんがいるのだと思うのですが、具体的には、どのような治療をするのでしょうか?

貝谷医師:私の場合は薬を処方して発作をコントロールしつつ、「認知行動療法」と呼ばれる、実際に予期不安があるシチュエーションに身を置いて、慣れていくことを並行してやっていきます。

――「認知行動療法」とは?

貝谷医師:日々人が治療のために、「宇宙服を着る」という恐怖を段階分けして、まずはサングラスをかけるシーンがありますよね。これがまさに認知行動療法です。恐怖の軽いものから挑戦して、クリアしたらだんだん強くしていくというやり方です。パニック症治療の一般的なやり方だと思います。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――「発作が起きなかったから大丈夫だ」という自信をつけさせていくという。

貝谷医師:そういうことですね。自信をつける、慣れるということですね。

――彼は「宇宙に戻る」という目標があったから大変な思いで認知行動療法を乗り越えました。たとえば一般人が「電車は怖いから、車を使う」とか、そういった発作のシチュエーションを避けるのはダメなのでしょうか?

貝谷医師:それはですね、回避行動といって、症状を悪化させる可能性があるんです。予期不安は、どんなに強いものでも、時間が経つと必ず自然に消えていきます。でも、回避してしまうと、不安がそのまま残ってしまうんですね。乗り越えたわけではないので。回避できないシチュエーションになると、今度は余計に不安が強くなります。治療において、回避行動はいちばんよくないことなんです。

――なるほど。先生のやられている治療の基本は、認知行動療法で成功体験を積み重ねていく、ということですね。

貝谷医師:そういうことですね、たくさん場数を踏むことが大切です。私の病院がやっている認知行動療法は、電車で予期不安を覚える人であれば、実際に何度も電車に乗ります。日々人がやっていることは、私が実際に行っている治療に非常に近いと思います。

――作中では、シルクハット、アメフトのヘルメットなど10段階に分けて、少しずつクリアしていくのですが。

貝谷医師:私の病院でも、同じように10段階(不安階層表)に分けてやっていますね。段階を踏んで、成功体験を積み重ねていくんです。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

日々人がNASAを辞めたのは仕方がなかった?

――日々人は、治療中に「もう100%の完治はない」ということで、NASAから「宇宙に行かせない」という判断をされます。これについてはいかがでしょうか?

貝谷医師:うーん……「完治」は難しいですかね。僕がいつもみなさんに言っているのは「パニック症で生まれた恐怖回路が頭のなかにできてしまうと、それを消すことはできない」ということなんです。浅くすることはできるけど消すことはできない。人間は覚えることはできるけど、忘れることのほうが難しいですよね。

――なるほど。

貝谷医師:もちろん、パニック症を理由にクビにするっていうのは難しいところですが……。彼はクビになったんでしたっけ?

――いえ、宇宙に行くことがない部署に配属換えになりました。

貝谷医師:なるほど。宇宙飛行士やパイロットって、現実でも、視力が落ちたらおしまいだし、病気をしたら乗せてもらえないこともたくさんあります。何億、何十億円というプロジェクトなわけですから、そこは慎重になりますよね。

――少しでも懸念があれば、それは組織として取り除くということですね。

貝谷医師:そういう意味では、作中におけるNASAの判断も仕方ないとは思います。

――たとえば、先生に宇宙飛行士の患者さんが来て「宇宙に行きたいんです」って言ったらどうされますか?

貝谷医師:それは、治療を一生懸命やるだけですよ。僕は医者で、その人の上司ではないし、宇宙に行くか判定するのは組織の人ですからね。僕はパニック発作を起こさないような、その人に合ったベストの治療をするだけです。

「心の問題」ではない

――日々人はその後、NASAを辞めて、ロシアから再び宇宙を目指します。完治はなくとも、症状を抑えて復帰の道を選びました。

貝谷医師:僕の患者さんも「電車に乗れるようになるんでしょうか」「人混みにいけるようになるのでしょうか」って、最初は疑心暗鬼で来るのです。でも、ちゃんと治療すれば、みんな、行けるようになりますよ。

 薬をやめたらまた発作が起こるとか、強いストレスがかかったら再発するということはあるけれど、そうしたらまた治療をしていけば、発作は抑えられます。

――完治はないけど、治療しながら付き合っていくものだということですね。

貝谷医師:そういうことですね。

――作中に「パニック障害って、心のどこかに問題があるだけだろう」という発言があります。現実でも「それって気持ちの問題なんじゃないの」「息苦しさなんて誰にでもあるよ」って言う人がたくさんいると思うんですけど、それに対してはどう思われますか。

貝谷医師:まず、気持ちの問題や、単なる不快感じゃないよっていうことですね。身体の病気なんです。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――「あなたの心の問題だよ」というのは、もうまったく違うということですね。

貝谷医師:そうですね。患者さんが言われて、いちばんつらい言葉だと思います。それに関しては、もっと世の中が理解して、パニック症の人も生きやすくなるといいと思いますね。

――世の中の理解ということで、もう少し聞かせてください。作中、日々人がパニック症をメディアで告白することによって「パニック症を持っている人が宇宙に行くなんて」と、ネットで叩かれる描写があります。

貝谷医師:彼は理解してくれる仲間がいて、自分の力で夢をかなえようとしているわけですよね。どんなことにも偏見はありますし、近い人たちが理解してくれているだけでも十分なんじゃないかと思います。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

パニック症になったからこそ見える世界がある

――日々人は、パニック症によってキャリアが変わりましたし、治療にも苦しみます。でも、そのなかで出会う仲間もいたり、順調なキャリアでは得られない成長もあったり、決して「悪いことばかりではない」という風に描かれているんです。

貝谷医師:なるほど。あなたにちょっと聞きたいのですが、パニック症に限らず「人間の心や身体が昔の状態に戻る」ってことは、あると思いますか?

――えっと……たぶん、元通りになることはないと思います。

貝谷医師:そうですよね。なんの病気があろうとなかろうと、人は歳をとっていくわけです。いろいろな経験をますし、日々、身体も変化していきます。「昨日とまったく同じ状態の今日」は、ありえませんよね。

――はい。

貝谷医師:でもそれは、別に後ろ向きな言葉じゃないんです。人間って、そういうものだと思うんですよ。

宇宙兄弟
©小山宙哉/講談社

――そういうもの、ですか。

貝谷医師:パニック症になって、経験しなくて辛い思いをしたり、苦労もありますよね。でも、それだけじゃなくて、パニック症になったからこそできることとか、見える世界があるんです。

 僕の患者さんには、プロスポーツ選手も、飛行機のパイロットもいました。
 彼らはパニック症によって同じ仕事が続けられなくなっても、次の段階のことを前向きにやっています。それは、かわいそうなことだと思いますか?

――いえ、素敵なことだと思います。

貝谷医師:きれいごとじゃなく、パニック症になったから出来ることとか、出会える人っているんですよ。

 僕の診察室に、こんな言葉が置いてあるんです。
「道に迷ったお陰でたくさんのいい人に会えたなあ」。

道に迷ったお陰でたくさんのいい人に会えたなあ

――この言葉、とてもいいですね。

貝谷医師:だから彼はパニック症にかかってNASAを去ったおかげで、いろんな出会いがあったわけですよね。それって、すごくいい人生なんじゃないかなと思うんですよ。

あわせて読みたい