「ヒットの予感 長嶋 有」Interview Long Version 2004年1月号

インタビューロングバージョン

更新日:2019/4/16

■きらびやかな別荘ライフとは無縁の山荘暮らし

──『ジャージの二人』は、北軽井沢の標高1100メートルの森の中にある山荘での父と息子の生活を描いた作品です。作中で描かれる山荘のモデルは、長嶋さんのお祖母さんが建てられた別荘だそうですが。

長嶋 そうです。戦後間もない頃に父方の祖父母が土地を購入し、山荘を建てました。
 軽井沢にブランドイメージが定着したのは、皇太子(現、天皇)が美智子さんとテニスをされて、それがテレビ放送されたのがきっかけじゃないかな。それまで軽井沢にハイカラなイメージはなかったでしょう。避暑地としては知られていたけれど、鉄道が不便なため訪れる人は少なかった。山の斜面を登るために、スイッチバック(電車が前後の向きを何度も変えて斜面を上り下りする方式)を使っていたような場所です。今でこそ北軽井沢に別荘をもつことに憧憬の念を抱く人は多いですが、別荘地に建っている家は昔のままの山荘のような古い家が多かったりします。
 敷地内に倒れそうな松の大木があるんです。祖母は木を切って住む空間を広げるという考えがなくて、コの字型に松の木を避ける形で家を建てた。決してエコロジー的観点じゃなくてね。地元の業者の人が見にきては、嬉しそうな口調で「これはぜったいに倒れるねえ」みたいなことをいうわけです(笑)。業者の人は、歯をやたら抜きたがる歯医者みたいに木を抜きたがるんですが、祖母はうちの土地の木が倒れて家が壊れようと勝手だという態度で、そのまま放置されています。

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 山荘の一部には、孫娘の勉強部屋として増築したアルミサッシの付いた新しい部屋もあるんですが、土台が緩いせいで部屋が陥没してサッシの窓が外れちゃうんです。長嶋家の山荘は、アルミサッシのような近代的設備を受け付けない、と(笑)。

──都会の喧騒から一時離れ、田舎で気鬱を晴らすというようなテーマで括られる、軽井沢の土地を舞台にしたロマン主義的な近代小説の流れがあります。芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄、遠藤周作たちの作品の系譜につながる側面を『ジャージの二人』はもっていると思います。

長嶋 主人公と父親が山荘に行く理由を、父親は「住むことをする」という言葉で説明しますが、それは半分ははったりで、本当は世事からの逃避だったりするわけです。都会の喧騒を離れる、なんて優雅なレベルじゃなくてね。

──主人公「僕」の母親と離婚し、現在は3人目の女性と結婚生活を送っている父と主人公は日常生活の中で一緒に過ごす機会はほとんどないわけですが、別荘に来ることによって家族であることを確認することができる。そのような理由もありますね。

長嶋 そういう思いは主人公の側にはあるかもしれません。父は来年の滞在に備えるために山荘にやって来るわけで、特に主人公を必要とはしていない。主人公の側も1人になりたければ別の手段があるはずです。父と2人きりの山荘生活を通して、父と子の関係を確認するという大げさなことではなく、単に共同生活を楽しみたいという気持ちがあるんでしょうね。

──彼らはきらびやかな別荘ライフとは無縁の生活を送ります。特に目的もなく1日を過ごし、やることといったら食材を買ってきて、食事をし、薪を割り、風呂を焚き、愛犬と散歩して、寝るぐらいなんですね。

長嶋 きらびやかさとはかけ離れた、食事を作って犬の散歩をして風呂を沸かして入るだけの生活というふうに前置きしてもなお、別荘生活というのはうっとりするムードを醸し出してしまうんですよ。生活の中身をキーワードとして書き出していくと、すばらしい生活をしているような印象を与えてしまう。そうした別荘生活にまつわる誤解を、風呂を沸かしたり犬を散歩させる現実をより細かく描写することで丹念に解いていきたかったんです。

──作中にスローライフという言葉が出てきます。スローライフは現代人にとって理想のイメージでとらえられることが多い言葉ですが、実際には伸び放題の雑草や黴や室内に侵入してくる虫と格闘したり、夜の闇の深さにおののいたり、生活の不便さを実感したりという局面があるわけです。そういうスローライフに代表される自然回帰への疑問が逆説的に描かれた作品であるように思います。

長嶋 アンチ・スローライフという言葉を帯に入れるつもりです。必然としてそこに住まざるをえないとき、スローライフはどのようなライフスタイルとしてとらえられうるか。この作品には、そうした挑発的な意味が込められています。山荘に行っても父親はファミコンをやってるし、コンビニ弁当のようなものが彼らの食生活に侵入してくる。そこで薪から風呂を焚く行為に代表される別荘ライフの美しさが、相対化されるわけです。標高1100メートルの場所まで文明は追いかけてくるんですね。文明の便利さの恩恵をやみくもに否定するのは簡単だけど、ずるいですよね。

──携帯電話も文明の象徴として描かれますね。主人公の居住空間の周辺は圏外ですが、レタス畑の真ん中に一箇所だけアンテナが3本建つ場所が存在していて、そこに携帯を利用したい人たちが集まってくる。いま長嶋さんがおっしゃったことが集約した、作品のポイントとなる場所だと思います。

■ステレオタイプの団塊の世代、ではない父親像

──長嶋さんはこれまで、さまざまな家族の関係の物語を書かれてきました。今回は父親と息子の関係に照明が当てられています。

長嶋 評論家の人たちに、僕の作品の特徴として父性の決定的な欠如を指摘されることが多いんですが、自作を検討してみると、『サイドカーに犬』や『夜のあぐら』のような父親が出てくる作品では父性がないことを強調するために父親を登場させているんですね。
 父性が必要ないのにも関わらず求められる局面があって、これから父親になる人や、いま父親である人は、ない父性を求められていて困惑しているように見えます。
 いっぽうで仲良し母娘という関係がある。一緒に手をつないで歩く姉妹のような母娘。ごく一部だとは思いますが、ああいう風にみせたい人が出てくる背景に気味の悪さを感じるな。

──主人公の父親は51歳ですが、従来のこの世代の父親像を崩すようなキャラクターです。

長嶋 この父親がリアリティのある父親として受け容れられるか、発表まで不安でした。団塊の世代がステレオタイプに描かれてきたことに対する不満があるんです。コミック誌の「モーニング」に出てくるようなサラリーマンとかヒッピー崩れとか、類型的にしか描かれてこなかったような気がします。団塊の世代として括られてきたイメージから逸脱するような50代の男性像がありうるはずだと考え、父親を造形しました。父親の面白さに反応してもらえたということは、団塊の世代の多様性を書きたいという僕のもくろみが半ば成功したということなのではないかと思います。

──ひと言でいうと自由人のイメージですね。自由人としての彼のライフスタイルが家族に了解されているから、誰も彼を責めないわけですね。

長嶋 でも自由であることにつらそうな部分も見せるんですね。それだけきついならなおさら許そう、みたいな接し方を家族はするわけです。自由であることに対して、不自由を引き受けるわけです。高温多湿の日本で夏の間働くのは馬鹿だと父はいい切りそれを実行しますが、そういう自由と引き換えに非難を浴びるのは当然なわけで、しかし断固として彼は家族と山荘で生活することを選ぶんですね。

──主人公はシリアスな状況に置かれています。妻との結婚生活は破綻し、勢いで仕事を辞め、小説を書くために山荘にやってきます。

長嶋 仕事を辞めて小説家を目指すのは、いちばん危ない人生の辿り方ですね(笑)。若い知人がそういうことをいい出したら、やはり止めます。成功事例はあるにしろ、まあ待て、夢を見るな、無理だから、と。でもそうせざるをえないタイミングが、人生にはあるんですね。

──それも父親の影響といえば影響かもしれませんね。

長嶋 そういうことですね。父親の背中を見て憧れるということではなくて、そのだらしなさをみて楽になるんだと思います。

──主人公の妻は不倫を宣言して相手と付き合い始めます。そのことで「僕」は憤ったり嫉妬したりするわけですが、特に修羅場になるわけでもなく、2人の関係はニュートラルなまま続いていきます。

長嶋 結婚生活というのは不思議で、普通の恋人同士なら別れ話になってしまうような出来事が夫婦間で起きた場合、そのような形にならないんです。恋人関係にあった者が別れた後に付きまとったりするとそれはストーカーということになりますが、夫婦の場合は携帯電話のパスワードを解除してメールの内容を盗み見るような行為はストーカーと実質同じなのに、許されてしまうようなところがあります。

 1度離婚してしまうと取り返しがつかないから、どちらも用心深くなるんだと思うんです。たとえば好きな人ができてしまっても、いきなり突っ走れない。不倫を宣言した後でやめてみたり、やめたといいつつも夫には隠して関係を続けてみたり、いろいろと迷走があるんですね。その部分を描きたかった。

──実はそういうことも父親がやってきたことなんですね。

長嶋 そういうことですね。この父親は結婚を3回もしてきたわけです。「僕」が陥っている状況を3回も繰り返してきたわけで、相当タフですね。
 妻を自宅において一人だけで山荘にやって来た「僕」の家庭状況は、父親や地元の名士で主人公の友人である遠山さんには、多分お見通しなんです。酸いも甘いも噛分けた人は、状況を見ただけで自分たちの人生のデータベースから類推して、夫婦関係がうまくいってないんじゃないかと感じるわけです。
 夫婦の不和は私小説的素材たりうるので、実在の長嶋有の人生も同じようなものかと誤解する読者がいるかもしれません。でもそういう勘ぐりを恐れずに書かなければ、作品としての強度が得られない場合もある。なんというか、ニュートラルにならないんです。その感じを出すには、主人公は仕事を辞め小説家を目指した長嶋有の履歴を踏まえた人物として描くしかなかったわけです。
「僕」だけでなく家族もね、実在の僕の父は3度も結婚してない。でもああいう風に書かないと駄目だった。遠山さんのモデルは岸田衿子さんと佐野洋子さんで、2人を足して2で割ったつもりだったけど、これはまったく上手に書けず、違う人になりましたね。うちで飼っている犬はチャロという名前なんですが、そのままチャロと書けばいいものを、ミロと名前を変えているんです。何で犬に遠慮しなければならないのか未だにわかりませんが(笑)、ある種の抑制が働いたんでしょうね。

■“ジャージ”という言葉の持つおかしみを生かす

──『ジャージの二人』という作品名に読者はまず惹きつけられると思います。このタイトルは、どのような経緯で付けられたのでしょう。

長嶋 作品で書いた通りに、山荘にしまってあった段ボール箱から胸元に「和小学校」と刺繍がされたジャージが出てきたんです。そのジャージを見た時に、『ジャージの二人』という題で小説を書こうと思いました。2000年のことです。つまり、デビュー作の『サイドカーに犬』の発表以前に、タイトルだけは浮かんでいたということですね。
『ジャージの二人』を書き終えて、この作品はシリーズ化できると思いました。この作品には定点観測の側面があるから。主人公と父は、『ジャージの二人』で描かれたような夏の過ごし方を、来年も再来年もずっとしていくだろう、と。だったら来年の二人の山荘での暮らしを書けばそのまま1本の小説になり、その翌年の物語を書けばまた違う作品になる。こりゃ得だ(笑)。
『ジャージの二人』を書いた時にそれほど意識せず、「僕」が園芸店で熊手を買うシーンを書き込みました。物語の中で熊手をうまく使うシーンが思い浮かばなかったのでそのままにしておいたんですが、次の年のシーンでその熊手を使えばいいことに気づいて、『ジャージの三人』の中で使いました。その考えを広げていけば、アイテムやプロットが未来のシーンの伏線になる。
『ジャージの二人』がおかしみのある題名であることはわかっていたから、悪乗りして続編を『ジャージの三人』にしました。『ジャージの二人』では父と息子の関係を詳細に描き込みましたが、同じことを3人でするのは大変だった。2人なら一対一の関係を描くだけで済むけど、3人になると3人の間の関係をすべて描写しなければならないから。当たり前なのに、書くまで気づかなかった(笑)。

 続編だから「続ジャージの二人」って題も考えた。最近あまりみないでしょう、「続」って。ハーレクイン風の『ジャージを脱いで』とか、シンプルに『ジャージ!』とか、馬鹿なのしか浮かばない。文学風なのは『ジャージにて』。一見『城の崎にて』みたいでしょう。だけど要するに「ジャージ着てる」ってだけの題だから。悩んだ末、続編らしいシンプルなものになりましたね(笑)。
 ウェス・アンダーソン監督の『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』という映画の中で、サリンジャーのグラース一家がモデルになっていると思われる天才一家の少年が、大人になっても子供の頃に着ていたジャージの大型サイズものを着て、自分の息子にも着せるんです。その色が小豆色なんです。洋の東西を問わず、小豆色のジャージはダサさの象徴なんですね。最後、物語の主要な人物の葬式のシーンで、彼らは黒いジャージを着るんです。やられた、と思いました。
 今年ブレイクしたお笑いコンビのテツandトモも、ジャージを着てますね(笑)。テツandトモが流行ったので、正直ちょっとばつが悪かった。俺の方がずっと前に考えてたんだという自負があったけど、『ジャージの二人』といえばテツandトモのことを指すぐらい流行りましたからね。

■スピード感を失わずに長編化するために

──『猛スピードで母は』『タンノイのエジンバラ』所収の作品はすべて短編ですが、今回は中編2編の連作ということで、長嶋さんにとって最長の作品ということになります。

長嶋 『ジャージの二人』は140枚ぐらいなので中編ですね。僕のやり方ではこの枚数が限界のような気がします。40枚ぐらいの短編の世界を140枚に引き伸ばしていくと、物語の広がり具合が扇状に指数関数的に増えるわけですね。

──短編のロジックで中編、長編を書くとそういうことになりますね。

長嶋 それがしんどいことがわかりました。特に『ジャージの三人』を書いていて思いました。この作品は僕の限界も示しているわけです。いまの手法では140枚以上は書けそうもないことがわかったので、長編の書き方についてこれから考えていく必要を感じています。長編を書くにしても、短編の濃密さを失いたくないんです。

──たとえば、ストーリーテリングで読ませるような技法の必要性を感じていられますか。

長嶋 やっぱりそういう技法を習得しないとだめでしょうかね。『ジャージの二人』を長編化するには、主人公の子供時代のことなどを回想体で挿入して、現在に重ねるようなやり方が必要なんでしょう。でも、それと引き換えに小説のスピード感が失われてしまうような気がします。

──主人公の祖母から現在に至る一族の系譜を、サーガとして描いていくような方向性も考えられますね。

長嶋 そのやり方でジャージの四人、五人と増殖させていって、長編化する方法はあるかもしれませんね。
 性格や職業や離婚暦などはともかくとして、僕自身の家族を、作品にある程度モデルとしてスライドさせています。ただ、僕には兄がいるんですが、この小説では兄の存在を省いています。長嶋家のサーガとしてジャージ・サーガにするためには、兄に該当する存在を出しておくべきだったかもしれないとちょっと後悔してるところです。

──『ジャージの三人』は、雷鳴が轟く中、ワゴン車で山荘に向かう3人と1匹の車内の描写から始まります。作品全体に気象の効果がうまく取り入れられています。

長嶋 大自然をことさら尊いものとして描きたくないからコンビニとかをもってくるんだけど、いっぽうで大自然は確たるものとしてあるんですね。
 たとえば主人公は、雷が近づいてくるとノートパソコンのコンセントを抜きます。作中で特に説明はしなかったけど、落雷があるとコンセントに繋がっているものに電気が流れてパソコンの基盤がやられてしまうからですね。そういう形で、自然を常に意識するわけです。自然を賛美せずに、自然の中にいる人間を書きたいということですね。

 彼らは山荘周辺の自然から恩恵をあまり受けてないんですね。都会より単に涼しいという一点のみに、彼らは優越感を感じたりするわけです。

──「デストラーデのカッツポーズ」や「ソニー製のワープロ」といった表現も、わかる人にはわかる効果的なキーワードです。

長嶋 「デストラーデのカッツポーズ」は、僕のオフィシャルサイトで動画配信しようと考えています。禅の思想を感じさせるような渋いガッツポーズなんですよ。デストラーデは現在、オリックスの打撃コーチをやっているらしいので、「小説の中で僕のガッツポーツが使われて光栄だ」みたいなコメントをもらえないかと集英社の人に相談したんですが、僕がYahoo!BBスタジアムまで行って、電波少年みたいにアポなしでゲリラ的にデストラーデにガッツポーズをお願いする方が面白いということになって、現在検討中です。

■装画が大島弓子さんに決まった理由

──今回の単行本の装画は大島弓子さんです。作中に2箇所、大島さんの名前が出てきますが、作品と大島さんをつなぐイメージのようなものが長嶋さんの中にあったのでしょうか。

長嶋 小説の中でフューチャーされているマンガ家は花輪和一なので、最初は花輪さんに装画をお願いすべきだと漠然と考えていたんですが、女性読者が手に取らないという指摘を受けたんです。確かに花輪さんは、ボロい山荘を緻密に描きそうじゃないですか(笑)。ジャージの親子の姿を『刑務所の中』のような筆致でリアルに描いてもらうのは僕の望むところですが、商品として必ずしも望まれるものではないということで却下されました。

 出版が決まって、明日にも装幀を誰にするか決めなければならないという状況で、出版部の人が大島弓子さんを推薦しました。前の作品が高野文子さんで、その後にブルボン小林名義で出したエッセイ集がいましろたかしさんの装画だったので、マンガ家が続くのはどうかなと思いました。
 僕はね、「最近は印刷技術も上がってるし、遠目で見ると小豆色のジャージ柄に見えるような表紙ってのはどう」って、担当編集者にいったんだけど、そんな言葉は発言されなかったかのようにスルーされて(笑)、大島弓子さんどうですかというんです。大島さんに電話したらOKということで、担当さんが大島さんと会うことになったというので、僕もその日にぜひお会いしたいというふうに伝えてもらいました。でも作者がその日、同席することを連絡ミスで伝えてなかったんですね。僕にOKですといったのは担当さんの早とちりで、実際には大島さんは読んでから考えますと返事をされたそうです。
 当日、タクシーで待ち合わせ場所の吉祥寺のオープンカフェに駆けつけると、ゲラを読んでいるおばさんがいて、大島さんだとわかりました。大島さんは作者が来るとは思っていなかったようで、恐縮されてしまいました。今だから思うんですが、大島さんは僕がその場に行かなかったら仕事を断っていたかもしれません。作者が期待した顔で目の前にいる状況では、断れませんよね。そういう偶然も重なって、なんとかお願いすることができました。
 「前の本の表紙はすべて人物画だったし、今度の本は人物画ではないのがいいです」って希望をいったら、同席した編集者がまたもやそんな発言はなかったかのように、「大島さん、ぜひ人物画でお願いします」と180度違った依頼をするんですよ(笑)。人物画でないと売れないということらしいです。そういう経緯で大島さんに書いていただいた装画ですが、間違いなくすばらしい表紙です。これから先も僕の本の表紙はマンガ路線で突き進むのか。どうなんでしょう。