長野県菅平の宿に集まる、痛みを抱えた人々。村山由佳による再生の物語『すべての雲は銀の…』

文芸・カルチャー

公開日:2023/3/3

 村山由佳氏による小説『すべての雲は銀の…』(講談社)が出版されたのは、2001年11月。今からおよそ20年あまり前になる。私が著者の作品にはじめて出会ったのは、高校生の頃だった。最初に出会った作品は『翼 cry for the moon』で、私の人生を大きく変えた一冊だった。以来、著者の作品を追い続け、本書も出版されてすぐに手に取った。狭いワンルームで布団にくるまり、貪るように頁をめくり、気が付いたら朝だった。何度読み返したかわからない。表紙は色あせ、本の上部は傷んでいる。手を伸ばす頻度の多い物語ほど、美しい装丁を保つのは難しい。

 本書の主人公である大和祐介は、恋人の裏切りに深く傷つき、身も心も打ちひしがれていた。そんな折、祐介は友人・高橋からアルバイトの打診を受ける。バイト先は、信州・菅平にある宿「かむなび」。恋人の面影が濃い大学生活を捨て、「かむなび」で過ごす決意をする祐介。その先で彼を待っていたのは、笑顔の奥にそれぞれの痛みを抱えて生きる人々との出会いだった。

「かむなび」は、宿であり、食事処でもあるが、完全有機栽培の野菜を育てている農園でもある。そのため、オーナーは皆から「園主」と呼ばれている。本作において、私が一番に推したい人物は園主である。佇まい、言動、一本通った強い芯。何もかもが、理屈抜きでかっこいい。こういう大人になりたいと、心から思う。

advertisement

 恋愛をテーマとしながらも、この物語にはさまざまなドラマがある。ドラマと言うと、陳腐に聞こえてしまうかもしれない。しかし、日々のなかに埋もれがちな出来事一つひとつが、本人にとっては大事(おおごと)なのだ。

 私が特に引き込まれたのは、小学生の桜ちゃんにまつわるエピソードだ。「かむなび」の宿には常連客が何人かいて、そのうちのひとりに年配者の茂市つぁんがいる。桜ちゃんは、茂市つぁんの孫娘だった。誰にでも優しく、面倒見のいい桜ちゃん。そんな彼女が不登校になったことで、茂市つぁんは悩んでいた。茂市つぁんの悩みをひと通り聞き終えたのち、園主が言う。

“桜ちゃんにとって、今のところ学校は檻みたいなもんや。何や自分でもようわからんけど、行きとうないとこなんや。それを、やいのやいの檻へ追い立てたかて、おびえて縮こまるだけやで。”

 桜ちゃんは、学校に行けない理由を自分ではうまく言語化できずにいた。代わりに、朝になると頭痛や腹痛に襲われ、ときには吐いてしまうほどだった。言葉にできない感情が身体症状となって現れるケースは、決して少なくない。それに対し、「精神的なもの」と説明した医者の言葉を、茂市つぁんや桜ちゃんの母親は、勘違いして受けとっていた。その誤解を解くために、同じ場に居合わせた花屋の美里が放った言葉も、シンプルでありながら印象深い。

“「『精神的なもの』と『気のせい』とは、全然違います」”

 痛みの原因が精神的なものであるというのは、痛いこと自体が気のせいだという意味ではない。そのように説明する美里の言葉と表情には、必死さが滲み出ていた。しかし、こうした人々の想いも虚しく、桜ちゃんはある日、母親と激しく衝突する。

 桜ちゃんが母親に対して叫んだ一言が、はじめて本書を読んだ当時からずっと頭に焼き付いている。あの台詞を叫びたくても叫べずに大人になった人が、この国には何人いるのだろう。

 上述したエピソード以外にも、心に残る場面は数多ある。大抵の人が、表面上では笑いながら、平気な顔をして世の中を生きている。しかし、その裏側にはそれぞれの痛みがあり、想いがある。本書は、そんな「目に見えない痛み」が丁寧に言語化されている。見えないものを「ないもの」にせず、真摯に向き合う。そんな稀有な書き手である著者が紡ぐ、痛みと再生の物語を、私はこれからも何度でも読み返すだろう。

(文=碧月はる)

あわせて読みたい