死刑囚の看守を通して描く「罪を犯す側と踏みとどまる側の境界線」。衝動と理性のはざまで揺れる中村文則の長編小説

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/5

何もかも憂鬱な夜に
何もかも憂鬱な夜に』(中村文則/集英社)

 テレビや新聞で犯罪者の報道を見るたび、その人たちと自分との境界線はどこにあるのだろう、と考える。なぜ、こんなことを。そう思う一方で、私も何かがほんの少し違っていたら、“あちら側”だっただろうとも思う。

“あちら側”と“こちら側”。その境界線は、ひどく曖昧だ。中村文則氏の著書、『何もかも憂鬱な夜に』(集英社)に登場する主人公は、何度も危うい境界線上に立つ。

 本書の主人公には、名前がない。「僕」とだけ記された人物は、親に捨てられ、施設で育った。刑務官として死刑囚の看守を務め、心身ともに過酷な日々を送る「僕」。本書は、そんな「僕」の感情を主軸として、過去と現在を行ったり来たりする。

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 主人公の「僕」には、真下という友人がいた。真下もまた、境界線上でもがく人間のひとりだった。もがき続けた末に、真下は自殺する。他人を壊してしまう前に、自分の存在を消そうと考えたのかもしれない。

 真下の死後、主人公のもとに一冊のノートが届く。そこには、真下が押し隠してきた葛藤や欲望が、びっしりと綴られていた。決して気持ちのいい内容ではない。だが、この一節が、どんな薄汚い感情よりも、真下の本音を表しているように思えた。

“たとえばこんなノートを読んで、なんだ汚い、暗い、気持ち悪い、とだけ、そういう風にだけ、思う人がいるのだろうか。僕は、そういう人になりたい。”

 人の心には、多かれ少なかれ闇がある。闇の深さは人それぞれで、深淵に近い人もいれば、ごく浅い川べりを漂っている人もいる。真下の闇は深く、重く、彼の心を蝕んだ。この世界にとどまることを、拒否するほどに。

 真下の自殺から13年が経っても、「僕」はたびたび、真下の言葉に引っ張られる。それだけではなく、囚人の許し難い裏切りや、彼自身の生育環境もまた、「僕」の日常を苛んだ。「僕」は段々、わからなくなっていく。“こちら側”にとどまることが、果たして本当に正しいのかどうか。しかし、同時にある人の言葉が、「僕」の脳内で警笛を鳴らす。

 子どもの頃、自身の状況に絶望し、「僕」は世界を一度見限っている。その際、ぎりぎりのところで「僕」と世界をつなぎとめた人間がいた。子ども時代の「僕」が暮らす、児童養護施設の施設長である。

“「自殺と犯罪は、世界に負けることだから」”

 まだ小さかった「僕」の頭を掴み、そう言った施設長は、「僕」が施設を退所するまでの間、芸術に触れる喜びを教え、善悪の境界線を教え、人を想う気持ちがいかなるものかを教え、命の尊さを説いた。

“現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、今のお前のためだけにあった、と考えていい”

 アメーバから進化した無数の生き物。繰り返される細胞分裂。その果てにようやく、「僕」が生まれた。今ある命のすべてが、そういう“奇跡の連続”の上に成り立っている。施設長のその言葉は、まだ子どもだった「僕」には、少し難しかったかもしれない。それでも、全部の意味がわからなくても、真剣に想ってくれている人の言葉は、子どもの心に深く残る。

「いつかわかる日が来ればいい」と、「今すぐ」の理解や見返りを求めずに言葉を手渡す。人を育むということは、おそらくその繰り返しだ。そして、その先につながるのが、“途方もない奇跡の連続”なのだと思う。

 決定的な過ちに向かって踏み出すその足を、強く引き留める杭となるものが自身の中にあるか否かで、人生は大きく変わる。「そっちじゃない」「戻ってこい」と、衝動に抗う声が人を“こちら側”につなぎとめる。私にも、そういう杭がある。“あちら側”との違いは、おそらくそれだけなのだと、本書を通して感じた。

 信じられる人がひとりでもいれば、世界を信じられる。それがどんなに細い線だとしても、自ら断ち切ってしまわない限り、線はつながっていく。つなげていきたい、と思った。いつか自然に、終わりを迎えるその日まで。脈々とつながれてきた奇跡の連続と、与えられた杭。その両方を握りしめて、私はこれからも、“こちら側”に踏みとどまる。

文=碧月はる

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