食べることは生きること。疲れた心と体に染みる、美味しい連作短編集『まずはこれ食べて』

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/14

まずはこれ食べて
まずはこれ食べて』(原田ひ香/双葉文庫)

 疲れている時、心が荒んでいる時、温かいご飯をお腹に入れると、それだけでホッとする。しかし、そういう時ほど忙しさにかまけて食事を疎かにしてしまう人も多いだろう。

 そんな忙し過ぎる現代人の心とお腹を満たしてくれる、豚汁のような小説がある。原田ひ香氏による新著『まずはこれ食べて』(双葉文庫)は、具沢山で、温かくて、読むごとにじんわりと心身が満たされる珠玉の連作短編集である。

 物語は、学生時代の仲間同士で起業した会社「ぐらんま」を舞台にはじまる。「ぐらんま」は、経営こそ軌道に乗っているものの、スタッフは業務に忙殺され、オフィスの掃除にまで手が回らない状態が続いていた。日頃の食事もインスタントで済ませる人が多く、職場の殺伐とした雰囲気と社員の健康面に不安を覚えたCEOの田中は、ある日「家政婦を雇おう」と提案する。

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 派遣されてきた家政婦の筧は、話し方こそぶっきらぼうだが、家事全般をきっちりこなす優秀な人材だった。水垢だらけの洗面台や風呂場はピカピカに磨き上げられ、出汁から丁寧に取った和食は、味わい深く体にやさしい。栄養たっぷりのご飯を囲むうち、「ぐらんま」社の空気は少しずつ緩んでいく。

 本書は、アルバイトを含む「ぐらんま」のスタッフと家政婦の筧の視点が、章ごとに分かれている。各章で登場するエピソードは、細く長くつながっている。そして、すべての章に回想として登場する人物が、ある意味ではこの物語のキーマンとも言えるだろう。「ぐらんま」の創業スタッフ全員が「忘れられない」人物の正体は、物語後半で明らかとなる。

 個人的には、第一話で描かれた胡雪のエピソードが印象的だった。

“伊丹は生まれながらの営業、モモちゃんはITの天才。何もない、私。”

 経営センス抜群のCEO田中をはじめ、優秀な人材が揃っている「ぐらんま」の中で、経理などの事務仕事を任されている胡雪は、自分の存在価値を見出だせず悩んでいた。そんな中で浮上した「家政婦を雇う」案に、胡雪は当初強い反発を示す。己に対する自信の無さと、「女なんだから」という世間の身勝手な風潮によるフラストレーションが重なり、筧が訪れた初日に感情を爆発させる胡雪。そんな胡雪に対し、筧は言葉をかけるより先に、リンゴをフライパンで焼きはじめる。

 カラメル色になるまでよく焼いたリンゴに、市販のアイスをこんもり添えて、筧は静かに言った。

“「さあ。まずはこれ食べて」”

 熱くて甘いリンゴの脇で溶け出すアイスを、リンゴと一緒に頬張る。瞬間、胡雪の心もとろりと溶けて、「おいしい」という素直な言葉が溢れ出した。 美味しい食べ物は、人を幸せにする。笑顔を生み出し、心を丸くし、人同士の絆をつなぎ合わせる。

 本書に登場するレシピは、美味しそうなだけではなく、どれも作り方が簡単で真似しやすい点も魅力の一つだ。具だくさんのおにぎり、素朴な甘さのデザート、キャンプでも作りやすいお手軽ご飯。レシピを説明する筧の口調は、いつも淡々としている。だが、誠実に丁寧にご飯を作り続ける姿は、大袈裟ではないからこそ人の胸を打つ。

 本書で紡がれる物語は、穏やかな場面だけではない。人生の機微は時に辛く、時に苦いものだ。誰しも人に言えない過去の一つや二つ持っているし、自分の中の黒い感情に支配される夜もある。そういう時は大抵、過去と現在とが混在し、複雑に絡み合っている。しかし、筧が作る温かいご飯と嘘のない言葉が、絡まった糸を解きほぐしていく。その過程は、穏やかで切なくて、ちょっと痛くて、どこまでもやさしい。

 疲れ果てた心と体に効く滋味深い物語は、嘘をつかず、まっとうに、誠実に生きる尊さを教えてくれた。そして何より、「食べることは生きること」だと改めて思い知らされた。

 噛みしめるほどじんわり染み出す素朴な旨味を持つ本書を、繰り返し味わおう。きっと毎回、味は変わる。それもまた「言葉を食べる」楽しみの一つだから、変化ごと味わって栄養にする。そのたびに、本書のタイトルでもある筧の言葉が体内に染み込むだろう。まずは、食べる。そうしたら、大抵のことはきっとどうにかなるのだと、お守りのように思える気がした。

文=碧月はる

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