『タコピーの原罪』著者の新作は”家族全員が記憶喪失”。「死」の文字で埋め尽くされた自分の部屋の謎と、家族全員が抱え込む闇とは

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更新日:2023/9/21

一ノ瀬家の大罪
一ノ瀬家の大罪』(タイザン5/集英社)

 これまで記憶喪失になったことはあるだろうか? きっと多くはいないだろう。僕は一度、サッカーの試合中に頭を強く打ち、記憶を失ったことがある。朦朧としながら、チームメイトに向かって「記憶なくなる夢を見たわ」と言ったのだが、僕はそのセリフを17回まったく同じように言ったらしいのだ。

 言った瞬間に忘れて、同じセリフを伝え、また忘れて……ということを繰り返していたらしいのだ。傍にチームメイトがいたから笑い話で終わったが、例えば、チームメイト全員も同じように頭を打って記憶喪失していたら、僕たちは各々とんでもない孤独に襲われたことだろう。

一ノ瀬家の大罪』(タイザン5/集英社)は、『タコピーの原罪』の著者の新作である。本書は、「お兄ちゃん」と呼ばれていることに気づいて目を覚ますと、自分が誰だかわからない状態、つまり記憶を失っており、しかも、周りを取り囲んでいた家族全員もまた同じように記憶を失ってしまっている、というシーンから始まる。

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 まずこのありそうでなかった思い切った奇妙な設定がいい。

 家族構成は、祖父母、父母、兄、妹。主人公は兄の一ノ瀬翼、中学2年生。妹の詩織は1歳年下の13歳。父母も、祖父母もどこにでもいそうなごく一般的な人たちだ。彼らは、ゴールデンウイークに車で出かけている際に、福井県の山道で事故を起こしガードレールを突き破って転落してしまい、このような状況になってしまったらしい。

 彼らの当面の目標は「記憶を取り戻すこと」だ。

 そのために手始めに取り組んだのが「架空の思い出トーク」だ。記憶を失った時の対処法として、思い出を家族が患者に聞かせて記憶を取り戻すというものがあるのだが、この家族の場合、全員が記憶を失っていてできない。その代案として、架空の思い出話をしているうちに何かしら引っ掛かる部分があり、記憶の一部が戻るかも、という論理だった。

 そこで母親の「この間みんなで沖縄行った時楽しかったね」というセリフを皮切りに、架空の沖縄旅行トークが始まる。架空ではあるが、水族館や食事、お土産話などに花が咲き、本当に沖縄に行ったような錯覚に陥り、この家族は最高で最強の楽しい家族だったのだ、と盛り上がる。

想像していた賑やかで楽しくて最強で最高の家族からの乖離

 事件は、退院して家族全員で家に初めて帰った時に起こる。

 にこやかにリビングに入ると、そこは物だらけ、片づけをろくにしないごちゃごちゃした汚い空間だったのだ。リビングテーブルには、食料や本、眼鏡、ハサミ、ペットボトル、お菓子などの物が乱雑に積み上がり、机の下にはバランスボールや段ボールや袋が敷き詰められている……。

 さらに奇妙な点は、部屋の構造にもあった。まずは長すぎる廊下。左右に個室がずらりと並んでいる。もっと奇妙なのが、すべてが鍵付きで閉ざされていることだ。6人全員分の個室が鍵付きなのだ。違和感を覚えながら、それぞれ、荷物の中に入っていた鍵を使って自分の部屋に入ると……。

覚えのない自分の個室に入ると、壁一面に「死」の文字

 1巻の冒頭では、主人公・一ノ瀬翼の部屋が見開きで明かされるのだが、これがもう圧巻だった。楽しい架空の思い出に浸りながら、帰宅したリビングの汚い空間と、「死」の文字が壁一面を埋め尽くす一ノ瀬翼の個室。この落差の激しさが不気味さを引き立てる。

 1巻の冒頭では、一ノ瀬翼の部屋しか描かれていないが、部屋の中を目撃した家族全員の表情だけは描かれている。祖母は驚きの表情と何かに手を伸ばそうとしている様子、祖父は机の上の紙か何かを見下ろし驚く様子、父は項垂れ愕然としている様子、母は大量の汗をかいて口が開いた表情、妹は催眠にかかったような4重の目をしてアッと驚いたような顔。

 そして彼らは気がつく。もしかしたら自分たちが想像していたような楽しい家族ではなく、何かとんでもない秘密を抱えた後ろ暗い家族なのではないか、と。

 1巻の最後には、妹・一ノ瀬詩織の部屋も明かされるのだが、その部屋の狂気性ときたら。精神に何かしらの異常をきたしていると思われるその部屋は、あるもので埋め尽くされていた。心理学的な側面から調べてみると、それは「安心感や愛情」を強烈に求めている証拠なのだとか。はてさて、妹の部屋を埋め尽くしていたあるものとは何だったのか、考えてみては。

学校生活に戻って気づく凄惨なイジメ……その真実は?

 一ノ瀬翼は、記憶を取り戻すため、次の日から学校に通うのだが、そこで待ち受けていたのは、ほのぼのとした青春などではなかった。一ノ瀬翼は虐められていたのか? あるいは誰かを虐めていたのか?

 何が正解かわからない。一ノ瀬翼が送っていた学校生活はどんなものだったのか、彼の性格はどんなものだったのか……? 手がかりはあるのだが、二転三転して掴めない。その描き方が非常にうまい。

 誰が正義で、誰が悪なのか? 何一つ確信を持つことができない。まさに、自分も一ノ瀬翼と同じように記憶喪失を追体験しているようなのだ。読者は、自分のことのように、一ノ瀬翼の記憶の断片をかき集め、自分のことのように記憶を取り戻していくのだろう。その行き着く先とは……?

 問題はそれだけではない。2巻で明かされるのだが、どうやら、この物語はただ一ノ瀬家の記憶を取り戻すだけの話ではないらしい。父、母の秘密と、祖父の部屋がキーになるのだが……。3巻が2023年8月4日に発売されている。まだ今からでも遅くない。是非、その目で、一ノ瀬家の行く末を見守り、また、推理してみてほしい。この一家にはどのような謎が隠されているのだろうか。

文=奥井雄義

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