今敏監督の遺作、サイケデリックな狂気的映画『パプリカ』の原作。夢に入り込む精神病治療に説得力があるわけ

文芸・カルチャー

更新日:2023/11/22

パプリカ
パプリカ』(筒井康隆/新潮社)

 悪夢に苦しめられた経験は誰しもあるだろう。僕の同居人もひどい悪夢に頻繁に悩まされては夜な夜なうなされているタイプの人間だった。

 殺人鬼に追いかけられた、逆に包丁で人を刺しまくった、玄関の扉を開けようと巨漢がガチャガチャ捻り続けている……そういった悪夢を幾度となく聞かされたことを、今でも覚えている。僕が登場することもしばしばあるらしいが、もちろん僕自身の意思を持っているわけではない。同居人の夢の中に入り込み、悪夢から救い出すことができればどれほどいいか、と何度考えたことか……。

パプリカ』(筒井康隆/新潮社)は、他人の夢にアクセスする機器を使い、夢を通じて患者の精神病の治癒を試みる「パプリカ」という名のサイコセラピストを描いたSF小説である。単行本は、今から30年前の1993年に中央公論社から刊行されている。

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 今敏監督の遺作となった映画『パプリカ』の原作であるが、描かれ方は少しだけ異なる。しかし、サイコセラピストが患者の夢の中に入り治療する中、病院内に裏切者が出て、他人の夢に重度分裂症(※)の患者の夢を差し込むなど悪用してしまいパニックになり……という展開は同様だ。ただし90分の映画では語られなかった、もっと複雑な人間関係やバックボーンなどが精緻に、そしてグロテスクに書き込まれており、映画を観てからでも充分に楽しめる一冊だ。

※刊行当時の表現。現在は「統合失調症」に改称。

 映画だけでなく本書を薦める理由は、夢の中に入り込むという奇異な設定に説得力を持たせる、睡眠・夢・精神分析における専門的だがわかりやすい含蓄に富んだ表現と、物語の進行にある。ユングの夢分析や、フロイトの夢判断などが物語の中にうまく組み込まれているのだ。

夢に出てくる老人は、本人の無意識下の「知恵の擬人化」である

 本書は、エンタテインメント的な目線で読むのはもちろん面白いのだが、ユングによる夢分析など知的好奇心を満たしたり、夢から現実的な悩みを論理的に分析する謎解き感覚で読めたり、と様々な角度から楽しめる点も強調したい。

 たとえば、ユングの夢分析によると、夢の中に出てくる老人は、本人の無意識の知恵が擬人化されたもので「本人に適切なことを教えてくれる人」という意味があるらしい。また、具体的な夢と、それに対するセラピストの専門的な考察もあるため、一見荒唐無稽な夢が、複雑にカモフラージュされすり替えられた無意識下の思考の延長にあるものだと判明し、脳の奥底に眠った真の悩みへと繋がっていく様は圧巻である。自分の今朝見たばかりの夢なんかを想像しながら読むのも面白いだろう。

“無理に思い出そうとしない方がいいわ。思い出さないために、にせの記憶をでっちあげたりする恐れがあるから。”

 といった脳の防衛反応とも呼ぶべき作用にも触れている。30年前に書かれた空想的で突飛な設定を舞台にしたSF小説と一口に言ってしまうには、あまりに現実的な説得力がある。思わず唸らされる考察も多く、非常に勉強になる一冊である。

夢の荒唐無稽さをうまく表現する難しさ

 夢の脈絡のない移り変わりを、文字で表現するのはやや難解かと思われたが、本書では実にうまく表現されている。夢の中に入り込むパプリカ目線で状況を端的に観察してくれているからだ。また、夢の中の取っ組み合いの場面では、まったく力の入らない空虚感を表現していたり、頭ではわかっているのに口にしようとすると明瞭な言葉にならなかったり、電話しようとするも、ボタンの数字の配列が乱数表のように不揃いだったり……と、夢あるあるが描かれており、共感しやすい。

 本書は、ミステリー要素もあり、知的好奇心も充分に刺激する、疾走感のあるエンタテインメント小説だ。「パプリカ」という裏の顔を持つ美人サイコセラピストと、100キロ以上の巨漢である夢へのアクセス機器を発明した天才科学者とのラブロマンスの行方も実に興味深い。筒井康隆の書く小説のバリエーションの広さに驚かされるだろう。また、本書の刊行後に断筆宣言をして3年3か月の休筆期間に入ったことも付け加えておきたい。それだけの達成感があった作品と推測され、筒井康隆を知るうえでは欠かせない物語なのだろう。

 発売から30年後の現在も、他人の夢の中に入り込む技術は開発されていないが、本書を読めば、悪夢に苦しむ恐ろしさや悪夢のグロテスクさに、心から寄り添うことができるかもしれない。

文=奥井雄義

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