日本の道徳教育はお花畑の空想物語? ゼロから学び直す『大人の道徳』

社会

2018/9/11

『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』(古川雄嗣/東洋経済新報社)

 みなさんは「道徳の教科化」という言葉を耳にしたことがあるだろうか。「道徳」という教科外の活動が、特別の教科になるのである。小学校では2018年度からこの道徳の教科化が始まっており、中学校では2019年度から始まる予定だ。

 この「道徳」は、いわゆる一般常識に近いので教えたり身につけたりするのが簡単そうで、実はつかみどころがない。そもそも、「道徳とは何ぞや」と聞かれてもうまく答えられない人が多いのではないだろうか。あるいは答えられても「お互いを思いやる気持ちを大切にし、支えあい励ましあう心のもちよう」といった、漠然とした回答ばかりだろう。

 このつかみどころのない「道徳」の本質を突き、わたしたち大人が学ぶべきであった、そしてこれから社会を担う子どもたちが学ぶべき「道徳」を総括する書籍が、『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』(古川雄嗣/東洋経済新報社)だ。本稿では本書に基づいて「道徳」とは何かを考えていきたい。

■「やりたいことをやりましょう」は奴隷の道徳。その理由は

 昨今、小学校や中学校のみならず、大学3~4年の就職活動においても「自分のやりたいことをやりましょう」とか「夢をもちましょう」などといった言葉がよく聞かれる。たしかに自分のしたいことをしたいようにすることは人生においてとても大切なことである。しかし、本書によればこのスローガンのようなものは“奴隷”の道徳にほかならない。なぜならば、“奴隷”は主人の課した労働(経済活動)に従事し、それ以外の場面においては好きなことをしていればよいからである。

 一方、この社会を生きるわたしたちは“市民”である。“市民”たるものは食べたいときに食べたいものを食べ、眠りたいときに眠りたいだけ眠るのみではなく、政治への参加であったり教育・納税・勤労であったりといった課せられた義務をきちんと果たさなければならない。つまり、自然の欲求に従うだけでなく、ときにはそれを理性によって制御することを求められるのが“市民”なのである。こうしてみると、日本の「道徳」の授業で教えられることがらは、“奴隷”の道徳に少し偏っているのではないかと思われる。

■理性の役割と道徳という授業について

 前段で理性について少し触れたが、これは具体的にどのようなものだろうか。本書によれば、理性とは、ある道徳的命令が単なる個人的な欲求や信念にすぎないのか、もしくは人間として従うべき絶対的な義務なのかを、論理的に考え判断する能力である。そして、各人がもちあわせている(はずの)理性を用いて、社会に普遍的に適用できるルールが「道徳」なのである。

 したがって、「やられたらやり返す」という個人的な信念のもとで行動することは、道徳的であるとはいえない。こうした信念について、「みんながそうしたらどうなるだろう」、「復讐の連鎖が生まれて、自分もそれに巻き込まれて破滅してしまうだろう」と、理性を使って論理的に考えることが、道徳的思考なのだ。

 こうやって導きだされる「他人にそうであってほしいと思うことを、自分でもしなさい」、「他人にそうであってほしくないと思うことは、自分もしてはならない」という規律が「道徳の黄金律」とよばれているものである。

 道徳とはただ「夢をもちましょう」とか「自分のやりたいことをやりましょう」といったふわふわしたお花畑の物語ではなく、教育によって鍛えられた理性を使って論理的に考えた結果、導かれるものであることがお分かりいただけただろうか。

 ここでは本書の内容を網羅することはできなかったが、「道徳とはなんぞや?」という問いに対する明確な答えがほしい方は、ぜひ本書を手に取っていただきたい。

文=ムラカミ ハヤト