まるでミステリー小説! アメリカの田舎町で起こった、嘘のような本当にあった町の歴史とは?

文芸・カルチャー

公開日:2022/7/7

リバタリアンが社会実験してみた町の話
リバタリアンが社会実験してみた町の話 自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』(マシュー・ホンゴルツ・ヘトリング:著、上京恵:訳/原書房)

「自由」とはなにか? 思想信条、行動、宗教などなど個人の当然の権利としての保証される自由とは別に、アメリカでは「自由」そのものを至上とする自由至上主義者「リバタリアン」がいる。

 リバタリアンが重んじるのは、宗教的な価値観や弱者救済の道義的責任ではなく合理主義であり、国家による統制や制度のくびきからも解放された“大いなる自由”を目指す。リバタリアンはそうした真に自由で純粋な市場によって、気候変動や教育の不平等、医療費の高騰といった社会問題が解決すると信じている人たちだ。

 マシュー・ホンゴルツ・ヘトリング著『リバタリアンが社会実験してみた町の話 自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』(上京恵:訳/原書房)は、リバタリアンによる「フリータウンプロジェクト」の“犠牲”となった「グラフトン」という町の顛末を記したノンフィクションだ。

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 自由を至上とするリバタリアンたちは、2004年にアメリカ、ニューハンプシャー州にある、およそ580世帯の田舎町グラフトンに移住し、フリータウンプロジェクトという社会実験と称して政府から町を解放すると宣言した。そしてその後の7年間、市場原理主義の理想にしたがって町のあらゆるものを私有化し、規制を緩和し、税に抵抗して町の予算を削減し続けた。その結果、公共サービスが削減され、町の街灯のほとんどが消え、町内にあるわずかな舗装道路も修理されることなく放置され、アスファルトの割れ目から草が生えた。もちろんクリスマスの飾りや独立記念日の花火もなくなり、町の2本の橋は管理を怠ったため崩壊の危険性があると州から警告を受けた。

 またグラフトンの町役場は壊れた給湯器を買い換える予算もなく、修繕されない壁のヒビからはアリがぞろぞろ入り込む。そして警察では12年間乗り続けているパトカーがしょっちゅう修理に出され、稼働不可能の時が多くあったという。

 これだけの出来事だけ読むと悲惨極まりない顛末ながら、過激で突拍子もない理想を掲げるリバタリアンたちやグラフトン住民たちの行動を、皮肉を交えた著者の軽妙な筆致によって、まるでブラックコメディ映画のような悲喜劇となっている。

 興味深いのは、このグラフトンという町自体が歴史的に自由と個人主義が色濃い土地柄だということだ。グラフトンの隣にはカナンという町があり、2つの町は1700年代末には人口数百人の入植地であった。それぞれの町は入植者を増やすため、カナンは税による公共サービスの充実を強調したのに対し、グラフトンは低い税率を強調した個人主義的な町であった。人口は増えていき、1850年にはカナンには1682人、グラフトンには1259人の人々が住むようになった。南北戦争後には、カナンは将来への投資として公共サービスを整え、グラフトンは好景気によって資金に余剰が出ると、1年間課税免除することを町民集会で採択した。

 1909年にグラフトンは消防署に資金を出すことを拒絶し、警察署の建設も否決した。その後の82年間は、歴代警察署長は自宅で仕事をし、自宅で取り調べを行い、犯罪記録を自宅に保管した。

 2つの町が出来てから200年経った2010年には、カナンに住む人々は3909人に増えたが、一方のグラフトンは1340人と、200年前から81人しか人口が増えていなかった。まるで寓話のアリとキリギリスのような話だが、これは本当にあった町の歴史なのだ。

 そしてもうひとつ注目したいのは、熊である。森に囲まれたグラフトンは過去に例を見ないほど人家と野生動物の境界が曖昧になっていた。その問題の解決にフリータウンプロジェクトがどのよう結びつくのか。まるで無関係に思える両者が徐々に交差しって全貌が明らかになっていく様は、まるでミステリー小説を読んでいるかのように本書のページをめくる手が止まらなくなる。

文=すずきたけし

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