祖父が体調を崩して半年。今日こそは、と楓は勇気を振り絞って「あの疑問」をぶつける/名探偵のままでいて④

文芸・カルチャー

公開日:2023/2/2

第21回『このミステリーがすごい!』の大賞に輝き、早くもベストセラーに! 2023年話題のミステリ小説『名探偵のままでいて』をご紹介します。著者は人気ラジオ番組の構成作家としても活躍中の小西マサテル氏。かつて小学校の校長だった祖父は、レビー小体型認知症を患い、他人には見えないものが見える「幻視」の症状に悩まされていた。孫娘の楓(かえで)はそんな祖父の家を訪れ、ミステリをこよなく愛する祖父に、身の周りで起きた不可解な出来事を話して聞かせるように。忽然と消えた教師、幽霊騒動、密室殺人…謎を前にした祖父は、生き生きと知性を取り戻し、その物語を解き明かしていく――。古典ミステリ作品へのオマージュに満ちた、穏やかで優しいミステリ小説『名探偵のままでいて』より、第1章を全7回でお届けします。今回は第4回です。3日ぶりに祖父を訪ねた楓。今日こそは「あの疑問」を祖父にぶつけようと決めていた。

名探偵のままでいて
『名探偵のままでいて』
(小西マサテル/宝島社)

 祝日を利用して三日ぶりに目黒区の碑文谷に足を運ぶ。

 地元の御鎮守様である碑文谷八幡宮にほど近い住宅街――

 その隅にひっそりと佇む祖父の家は、寂れかけた小さな二階建ての木造住宅だ。

 申し訳程度の庭からは、桜や八つ手が塀の外まで枝葉を伸ばしている。

 門柱の木の表札には、墨痕も鮮やかに祖父の苗字がどん、と書かれてあった。

 昔から見慣れた祖父の字だ。

 表札は家の顔だという。

 外観にいくらかでも風格があり、いまだ凜とした存在感を纏っているのは、表札の文字が達筆であるおかげかもしれなかった。

 だが門から中に入ると、そうした趣きはいきなり興を削がれる感じがあった。

 かつては玄関までの目印のように丸石がぽつぽつと敷かれてあったのだが、祖父が認知症を患って以来、そこは無味乾燥たるコンクリートの小径となっていた。

 リフォームが後回しになっている玄関ドアのノブを廻すと、すぐに抗菌剤の疑似石鹼の香りが鼻をつく。

 ヘルパーさんですか――楓はそう声を掛けようとして、すぐにやめた。

 玄関先にそれらしき靴が見当たらなかったからだ。

 訪問介護ヘルパーは掃除と洗濯を終えて、今しがた帰ったばかりなのだろう。

 廊下の壁のそこかしこには、まだ新しい手摺りがいくつも取り付けられていた。

 足取りがおぼつかない祖父にとって、家の中を移動するには複数の手摺りが必須となる。

 こうした福祉用具を購入する際、補助金を申請しようとすると、自治体によって差異はあるものの、かなり煩雑な手続きと膨大な時間を要する場合が多い。

 そのため結局は祖父のように、自費でその多くを賄わざるを得ないのが実情だった。

 廊下の左手にある居間に入る。

 ふと、まだかろうじて艶を残す大黒柱を見ると、鉛筆で横線が何本も引かれてある。

 それは、幼い頃の母や、たったひとりの孫である楓の背を測った痕だった。

 横線の脇に書かれてある身長の数字や日付の文字はほとんど消えかかってはいるものの、これまた祖父の達筆ぶりが窺える。

 だが、その文字にめり込むように手摺りの芯棒が突き刺さっているのを見ると、胸が痛む。

 窓辺を見やると、白いTシャツが部屋干しで何枚か吊るされているのに気が付いた。

(やだ。ヘルパーさん、うっかりしたのね)

 DLB患者がいる場合、なるべく服の部屋干しはしないほうがいい。

 干された服を人と勘違いしてしまうからだ。

 とくに白いTシャツの場合、DLB患者は往々にして、その〝白いキャンバス〟に強烈な幻視を重ねてしまうことがあるのだ。

 同様の理由から人物画や家族写真なども患者の目には触れさせないほうがいいと聞き、卓上に並んでいた写真立てを簞笥の奥かどこかに、急ぎ仕舞い込んだこともある。

 慌ててハンガーからTシャツを外そうとしたとき――

 背後から、比較的しっかりとした祖父の声がした。

「すまんね、それは香苗(かなえ)が干していったんだ。まだ汚れが落ち切ってなかったかな」

 居間に現れた祖父は、コーヒーカップを持ったまま、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。

 二階にある寝室はすでに物置と化していたから、祖父の行動範囲は、もっぱらベッドが置かれているこの居間と、いちばん奥まったところに位置する書斎に限られている。

 だが今日の足取りをみると、前回来たときよりもすこぶる調子が良さそうだ。

 日によって体調に大きなばらつきがあるのもDLBの大きな特徴だ。

「ううん、皺を伸ばしていただけよ」と取り繕いながら、Tシャツを取り込むのは諦めた。

「ヘルパーさんじゃなくてお母さんが来てたのね」

「仕事が残っている様子でね、慌てて帰っていったよ。残念ながら入れ違いだな」

 内心、楓はほっとした。

 そのほうがいい――

 少なくとも、あの疑問をぶつける今日だけは。

 そもそも最近では、これほど体調が良さそうな祖父を見るのは珍しい。

 やはり今日はチャンスだ。

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