HIV感染とAIDS発症はイコールじゃない。/『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』④

文芸・カルチャー

2019/8/4

話題のNHKよるドラ「腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。」原作。
同性愛者であることを隠して日々を過ごす男子高校生は、同級生のある女子が“腐女子”であることを知り、急接近する。思い描く「普通の幸せ」と自分の本当にほしいものとのギャップに対峙する若者たちはやがて――。

『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(浅原ナオト/KADOKAWA)

■第4回 HIV感染とAIDS発症はイコールじゃない。

 ホテルを出た後は真っ直ぐ駅に向かう。夕食は食べない。マコトさんには家族の団らんが待っている。東口の前で「じゃあ、また」と別れた。

 新宿始発の私鉄に乗って数駅進み、急行は通り過ぎる小さな駅で降りる。住宅街の狭い路地をしばらく歩くと、見るからにボロい二階建て安アパートに辿り着く。その二階の一部屋が、僕と母さんの住居だ。

 部屋のドアノブに手をかけて回す。当然のように回らないから、鍵を使って開ける。昼間はスーパーでパート社員として働き、夜は小さなスナックに出向いてホステスとして働く母さんと、僕の生活動線が重なる時間は少ない。

「ただいま」

 返事はない。キッチンで冷凍ピラフを温めて、テレビを見ながらリビングで食べる。テレビ番組は『この春、恋人や家族と行きたいお花見スポット』を紹介していた。カップルや家族連れの観光客が、幸せそうに笑いながら次々とインタビューに答える。カップルは全て男と女。家族連れは全て両親と子ども。僕は、テレビを消した。

 その手の専門家に言わせれば、僕は「父親の愛情に飢えている」ことになるだろう。そして「父親の代わりを求めて年上好きの同性愛者になった」ことになるだろう。考えると腹が立つ。「違う」と言い切れないところが、特に。

 ピラフを食べ終わった後は自分の部屋に行き、ノートパソコンを立ち上げる。しばらくネットで遊んでいると、常時起動しているメッセンジャーツールがポーンと軽快な音を鳴らし、僕にメッセージを寄越した。

『やあ』

 送信者は『ミスター・ファーレンハイト』。QUEENの楽曲、『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の歌詞から取ったハンドルネームだ。その意味するところは、華氏温度の提唱者。

 華氏温度とは、僕たち日本人が使用している摂氏温度とは異なる温度の表現方法だ。摂氏温度において水の融点が0度、沸点が100度になるのに対し、華氏温度では融点は32度、沸点は212度になる。

 QUEENは『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の中で、華氏200度の男という意味で『ミスター・ファーレンハイト』という言葉を使っている。沸騰温度212度に対して200度。メッセージを送ってきた彼はこれを「沸騰寸前野郎」と解釈した。そして、やや皮肉めいた意味でハンドルネームに使っている。

『どうしたの?』
『別に用なんかないよ。話しかけたくなっただけ』
『最近はどうなの? そろそろ検診でしょ』
『ブログは見ていないのか?』
『君には悪いけれど、あまり見たくないんだ。開いた時に悪いニュースが飛び込んで来たらどうしようって怖くなる。そういう大事なことは直接聞きたい』
『ジュンらしいね。そういうところ、好きだよ』

 ミスター・ファーレンハイトの「好き」は軽くて重い。文字だけでこの矛盾を出せる人間を、僕は彼以外に知らない。

『何も変わってないよ。CD4値は前とほぼ一緒。もちろん発症もしていない』

 CD4値とは血液1マイクロリットル中のCD4陽性Tリンパ球の数。HIV感染患者が免疫力を確認するのに用いられる指標だ。HIVの感染者―キャリアであるミスター・ファーレンハイトは病院に通い、定期的にその値をチェックしている。

 HIVとは免疫力を低下させるウィルスの名前。性交によって粘膜から血液に侵入して感染するケースが多い。決して同性愛者限定で感染するウィルスではないけれど、腸粘膜は薄いのでそこを使う男の同性愛者は感染リスクが高い。

 そしてHIVとよく混同されるAIDSは病気の名前。HIVウィルスに感染した状態で指定された二十三の疾患のうち一つ以上を発症した時、AIDSを発症したということになる。つまりHIV感染とAIDS発症はイコールではない。

 ミスター・ファーレンハイトはHIVには感染しているけれど、AIDSは発症していない。彼がハンドルネームを「ミスター・ファーレンハイト」とした理由がそれだ。自分がいつAIDSを発症してもおかしくない「発症寸前」の状態だから「沸騰寸前野郎」の名を借りた。

 僕は正直、その由来にはあまり納得出来ない。キャリアであることを自覚しているミスター・ファーレンハイトは、自分がHIVに感染していることに気づいてすらいない人間より遥かにAIDS発症から遠い。だけど煮えたぎった油に冷めた水の蓋をしたような、凪いだ表面に油断をして手を突っ込めば大火傷を負いそうな彼という人間に、そのハンドルネームはとても良く似合っているとも思う。

『良かった。じゃあ、後でブログを見に行くよ』
『順番が滅茶苦茶だな』
『僕は君の闘病記録を見に行っているわけじゃないからね』
『それは光栄だ。どんな心配を受けるよりも嬉しいよ』


【次回につづく】