エスカレートする一方の連続殺人魔、それが自分なのに/ 松岡圭祐『高校事変Ⅲ』⑦

文芸・カルチャー

公開日:2019/11/18

超ベストセラー作家が放つバイオレンス文学シリーズ第3弾! 前代未聞のダークヒロイン・優莉結衣が、シリーズ最強の敵、戦闘能力の高い元・軍人たちを相手に大活躍する…!?

『高校事変III』(松岡圭祐/KADOKAWA)

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 見学訪問を承諾した結衣の意思は、猪原の連絡により、夕方までに角間らに伝わったらしい。あわただしいことに、翌朝には迎えにくる、そんな返事を受けたという。

 葛飾東高校へは施設職員が電話してくれた。翌日の欠席は了承された、施設職員が結衣にそういった。映像の件が高校に知らされたかどうか、そこはきかなかった。どうせそのうちネットで噂になるか、マスコミが記事にするだろう。

 朝の暗いうちから、施設の雨戸は開け放たれる。窓の外に見える漆黒の空は、青みがかってすらいない。とはいえそんなに早くもなかった。冬のこの時期、日の出は午前七時近い。みな通学に備え、とっくに起きだしている。

 結衣は葛飾東高校の制服を着た。そうするよう指示されたからだった。スマホ充電用のUSBケーブルを、忘れずリュックにおさめる。階段を下りていくと、朝食の準備が半ば進んでいるものの、食卓は無人だった。明かりだけ灯ったキッチンにも誰もいない。

 どうせ食べている暇はなかった。もう迎えのクルマは到着している。結衣は靴をはき、リュックを片手に玄関のドアを開けた。

 ひんやりした外気が全身を包みこむ。埃ひとつない微風に肌が触れた。暗がりの路地にセダンのテールランプが赤く点灯している。排気筒が白煙をくゆらせていた。ほかに人やクルマの往来はない。けれども寂寥にはほど遠かった。玄関先に施設職員や子供たちが群れていたからだった。

 みな立ち話をしていたが、結衣が外にでたとたん、いっせいに視線を向けてきた。結衣は面食らった。見送りのためにわざわざ集まってくれたのだろうか。

 真っ先に声をかけてきたのは、エプロン姿の女性職員、谷川裕子だった。裕子は悲しげな面持ちとともにいった。「優莉さん。しっかりね。きっとだいじょうぶ。勉強もできるし、いい子だし」

 次いで小六の女の子、陽菜が泣きながらすがりついてきた。背が伸びたように思えるが、厚底スニーカーのせいだとわかる。「結衣お姉ちゃん。いつも宿題を手伝ってくれて、本当にありがとう。お礼にスチームクリームをプレゼントしようと思って、お小遣い貯めてたんだけど、間に合わなかった」

 戸惑いが募りだす。結衣はつぶやいた。「見学へ行くだけだし……」

 小三の男の子、璋が鼻息荒くいった。「だよな? 戻ってきたら西柴又小学校の先生をやっつけてよ。漢字ドリルやらなかったぐらいで怒ってきて、むかつくから」

「こら」男性職員の伊藤が、瘦せ細った外見に似合わず、璋を𠮟った。「冗談でもそういうことをいうな」

 ほかの職員らも、口々に励ましてきた。優莉さん、がんばってな。まだどうするかきめてないと思うけど、どっちにしても応援してるから。

 そのうち理恵と目が合った。やはり涙をたたえている。理恵は震える声で告げてきた。「みんな、もう結衣さんが帰らないんじゃないかと思ってる」

「そんなこと……」結衣は視線をおとした。なおも寄り添う陽菜の頭をなでながら、結衣はささやきかけた。「陽菜がスチームクリームを買ってくれるまで、ここを離れないから」

「ほんとに?」陽菜が泣きながら見上げた。「なら買いたくない」

 大人たちに控えめな笑いが湧き起こる。施設に暮らす全員が顔をそろえていた。寝坊がちの児童や生徒も、こんな朝早くから起きだしてきている。笑顔を向けられるたび、結衣の胸の奥に、針で刺すような痛みが生じた。

 暴力沙汰を起こしたと知りながら、味方でいようとしてくれる。施設につきものの青臭い絆に、当初は拒否反応しかおぼえなかった。けれどもいまは情を受けいれたくなる。とはいえ自己への呵責を無視できない。

 ネット上の悪い噂は大半が本当だった。結衣が大量殺人者だとわかっていたら、こんな人間関係などありえない。

 それでも欺瞞に支えられるばかりではなかった。理恵は真実を知っている。好ましいことかどうかはわからないが、そんな人間がもうひとりいる。

 最後に向きあったのは、同じ葛飾東高校の制服を着た、三年の女子生徒だった。もともと結衣より瘦せていたが、いまはいっそうブレザーがだぶついて見える。青白い顔に痣がうっすらと残る。額と片頬にはバンドエイドを貼っていた。

 奈々未は哀感を漂わせつつ、そっと結衣の手を握った。なにもいわなかった。言葉はなくとも、妹同様に潤みがちな瞳が、思いのすべてを語っている気がした。

 結衣もわずかに力をこめ、奈々未の手を握りかえした。伝えたい気持ちを残らずそこに託した。

 警察の執拗な取り調べにも、奈々未は真相を明かさなかった。逗子の山中で奈々未を救ったのは、見知らぬ男だった、彼女はそう証言した。

 微風が奈々未の髪を泳がせた。漂いだした静寂のなか、奈々未がささやいた。「本当にありがとう。結衣さん」

「きょうの学校、ひとりでだいじょうぶ?」

「なんとかがんばってみる」

「困ったことがあったら、いつでもラインして。見知らぬ男がすぐに飛んでくるから」

「飛んでくる?」

「そう。知ってるでしょ。文字どおり飛んでくる」

 ようやく奈々未が微笑を浮かべた。結衣も自分の顔がほころぶのを感じた。いままでずっと仏頂面だったと気づかされる。

 猪原が近づいてきて、目でうながした。迎えを長くまたせられない。結衣は猪原と並んで、セダンへと歩きだした。

 歩調を合わせながら猪原が話しかけてきた。「みんなきみに残ってほしくて集まってる。私もきのうはああいったが、きみがもし塚越学園へ行かないつもりなら、今後もここで暮らせばいい。世間がなにをいおうが、公安がちょっかいをだしてこようが、全力で撥ねのける」

「ご迷惑でしょう」

「心配ない。それよりみんなの声をきいて、きみの存在の大きさを、あらためて認識したよ。きみは愛されてる。そこをよくわかっていてほしい」

 切なさに似た感情とともに心が細る。結衣はなにもいえず、ただ黙々と歩きつづけた。みなの目に映っているのは、結衣の素顔ではない。

 セダンは大型で、緑のナンバープレートを備えていた。ハイヤーにはめずらしくアメ車だった。後部ドアが開き、角間が降り立った。きちんとスーツを身につけている。礼儀正しく会釈した。助手席にいた倉橋も車外にでてきて、角間に倣いおじぎをする。

 ドライバーは別にいた。運転席から這いだし、車体を迂回してこようとしたものの、ドアを開けるのが間にあわなかったらしい。白髪混じりで人のよさそうな男性だった。気まずそうに苦笑いしながら頭をさげる。

 倉橋が紹介した。「きょうの運転手の但枡さん。塚越学園まで送ってくれるよ。この時間はまだ十六号もすいてるけど、距離があるからね。一時限目に間にあうぐらいだと思う」

 角間は見送りの一同を眺めながら、穏やかにつぶやいた。「みんな結衣さんが好きなようだ。塚越学園は全寮制といっても、外出許可はでるよ。ときどき遊びに来ればいい」

 猪原が複雑な表情を浮かべた。角間は結衣の転校を確信しているようだ。そこに猪原は困惑をおぼえたのだろう。結衣は沈黙を守るしかなかった。双方とも善意をしめしてくれている。安易なわがままは口にできない。

 但枡が後部ドアを大きく開け、かしこまって立った。ようやくドライバーとしての仕事ができて嬉しそうだった。角間が車内を指ししめす。結衣は会釈をし、後部座席に乗りこんだ。

 横に角間が並んで座った。倉橋が助手席におさまり、最後に但枡が運転席に滑りこむ。気を遣ってくれているのか、運転席のシート位置が前方に設定してあった。結衣の足もとには余裕が生じている。

 それぞれシートベルトを締めた。クルマがゆっくりと発進する。猪原が片手をあげた。施設の職員や生徒児童らも、路地に繰りだしてきて、大きく手を振った。理恵は奈々未に寄り添っていた。表情をたしかめるのは辛い。結衣は意識的に焦点を外した。

 曲がりくねった路地を、クルマが静かに駆け抜ける。後方にはもうなにも見えなくなった。

 角間が元気づけるようにいった。「新天地でもすぐに友達ができそうだ」

 結衣はうつむいた。「まだ見学の段階です」

「そうか」角間は少しばかり残念そうにつぶやいたが、すぐ気をとり直したようすで、パンフレットを差しだしてきた。「塚越学園の入学案内。暗くて見えないかな?」

「いえ」車内灯が点いていなくても、街路灯の明かりが窓から射しこむ。なんとか読みこなせた。校内の写真が多い。特に秘密にされているわけではないようだ。教室や食堂は真新しく、校内の設備も充実している。寮の部屋も清潔でゆとりがあった。体育の授業や部活のようすも、ふつうの高校と変わらなく感じられた。

 角間がいった。「再非行防止のための特別カリキュラムもある。教師はみんなやさしい人ばかりだよ」

 鈍重な気分に浸りきる。再非行防止。学校法人であっても、やはり矯正施設に変わりはない。というより更生施設そのものか。

 察したように角間が見つめてきた。「どうか理解してほしい。法務省の調査で、少年少女の検挙者のうち再犯以上が、四割近くもいると判明した。ほかの不良仲間と接触させないことが重要になる。きみのように立ち直りの早い子もいれば、そうでない子もいる」

 立ち直りが早いどころか、誰よりも凶悪な犯行を繰りかえしている。エスカレートする一方の連続殺人魔、それが自分だと結衣は悟った。

「これ」結衣はきいた。「もらっていいですか」

「もちろん」

 結衣はパンフをリュックにおさめようとした。いくつかのドングルを収納したケースが邪魔になり、うまく入らない。中身を整頓にかかった。

 角間がいった。「左利きだね」

「低収入で早死にする」

「そんなデータはないよ」

「逆に高収入で天才って噂もあるけど、そっちもちがう」

「ああ。いずれにしても無責任な都市伝説だ。私は脳神経外科医でもあってね。脳梁がわずかに広い以外、右利きの脳と構造は変わらない。右脳派とか左脳派とかナンセンスだよ。ただしスポーツの種目によっては有利になる。野球、ボクシング、卓球」

「ゴルフも」

「それはおかしい。ゴルフは対戦型競技じゃないから、サウスポーだからといってアドバンテージはないだろう」

「いえ。インストラクターとして食いっぱぐれがないと思います。向かいあわせの指導が喜ばれるので」

 角間は目を丸くしたが、すぐに笑いだした。「科学にもまちがいはあるかな。左利きのきみは、やはり天才的な閃きを持ってるよ」

「将来食べていける方法を模索してるだけです」結衣はリュックをわきに置き、静かにいった。「角間さん。質問していいですか」

「なんでも遠慮なくきいてほしい」

「父のパーソナリティ障害って、遺伝しますか」

 ためらいがちな沈黙があった。角間の眉間に皺が寄った。「疫学上の研究がある。たとえば非社会性パーソナリティ障害を発症する女性は、全体の一パーセントにすぎない。百人中わずかひとりだ。男性でも三パーセント。きみの父親のように、複数のパーソナリティ障害が重なるケースとなると、きわめて稀だ」

「問題は遺伝するかどうかです。父がそうなら、発症の割合も高くなりませんか」

「いまはそんなこと気にしなくていい。きみはきみだし、人格はすなわち個性だ。よほど残虐な行為にためらいを感じないかぎり、父親の遺伝など疑いうるものではないよ」

 よほど残虐な行為か。憂鬱な気分におちいる。自分はその稀な例にこそ、しっかりと当てはまる。

 結衣はつぶやいた。「少年鑑別所でも一般からの相談受付が始まって、法務少年支援センターが全国にできたのに、塚越学園が非行少年少女の更生まで手がけるんですか」

「詳しいな」角間が感心したようにうなずいた。「未成年者の検挙数は減少していても、センターへの相談件数は増えている。夜遊びや家出、家庭内暴力。少子化社会というのに、深刻な問題だよ。塚越学園が担っている期待は大きい。ただでさえ数の少ない少年少女たちを、路頭に迷わせている場合ではない」

 生徒児童のあらゆる問題を、一手に引き受けようとしている。学園長としての使命感のなせるわざだろうか。

 武蔵小杉高校事変では、総理が人質にとられたこともあり、校舎が日本の縮図になったと報じられた。本当の意味での現代社会の縮図は、塚越学園にこそあるのかもしれない。結衣はそこへの入学を薦められている。とはいえそれは本当の結衣ではなかった。きわめて稀な未成年の連続殺人魔に、もはや更生などありえない。自分は自分として生きていくだけだ。父とはちがう。死刑にもならない。

 結衣は角間にきいた。「優莉凜香の入学手続きはすんでいるんですか」

「優莉凜香? はて。優莉という苗字は、きみが初めてだと思うが」

「わたしの妹です。麹町西中の二年」

第8回に続く

松岡圭祐
1968年愛知県生まれ。97年に『催眠』で作家デビュー。代表作「万能鑑定士Q」シリーズは累計450万部を突破。他の作品に「千里眼」「探偵の探偵」各シリーズ、『ジェームズ・ボンドは来ない』『ミッキーマウスの憂鬱』など多数。
写真=森山将人