僕があのギタリストなら羞恥で死んでいたと思う/『蕎麦湯が来ない』④

文芸・カルチャー

公開日:2020/5/12

美しく、儚く、切なく、哀しく、馬鹿馬鹿しく、愛おしい。鬼才と奇才。文学界の異才コンビ・せきしろ×又吉直樹が詠む、センチメンタル過剰で自意識異常な自由律俳句集より、その一部をご紹介します。

『蕎麦湯が来ない』(せきしろ又吉直樹/マガジンハウス)

誰も取らなかったピックの軌道

 十代最後の夏、人気ミュージシャンが多数出演する数万人規模の音楽祭のチケットを知人から譲り受けたので、一人で横浜まで赴いた。

 僕は芸人として歩みはじめた時期で、爆発的な集客を誇るミュージシャンに対して劣等感を募らせる一方で、よくこれだけ大勢の他人を前にして唄えるなと同情もしていた。僕は、親戚が七、八人集まっただけで口を開く気が一切無くなってしまう性質だった。

 新しいミュージシャンが舞台上に登場するたびに、もし自分がこの音楽祭に出演していたとして、登場時に観客が無反応だったら、恥ずかしくて死んでしまうのではないかと不安に思った。それは恐ろしい想像だった。僕は新しい出演者が登場するたびに固唾を呑み、どうか大きな反応がありますようにと願った。

 もちろん、一定の人気が無ければ出演すらできないイベントなので、ほぼ無職だった自分のような存在が心配することではなく、そんな優しさは不要だった。かつて海援隊が、「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」と唄ったが、僕の日常は悲しみにまみれていたのかもしれない。

 イベントの中盤辺りに、若いバンドが出演した。彼等もまた大きな歓声と拍手で迎えられ、演奏も大いに観客を盛り上げた。その光景は僕を安心させたが、一点だけ気になる問題があった。ギターの男性メンバーがピックを客席に投げ過ぎるのだ。初めは観客も「キャー」と声をあげ両手を広げてキャッチしたが、彼は曲が終わるごとに、いや、それどころか、曲の合間にも隙があればピックを観客に投げ続けたので徐々に雰囲気は重くなった。その行為は過剰なサービスの域を超えて、狂気さえも感じさせた。

 このイベントは、全ての観客が彼のファンというわけではない。途中から彼が投げるピックに誰も反応しなくなった。僕が彼なら羞恥で死んでいたと思う。それでも彼はやめなかった。途中から僕は観客に腹を立てた。僕なら取る。腕に血管が浮き出るほど全力で手を伸ばし、指先に全神経を集中して、取る。そして、喜ぶ。

 帰り道、最寄りの駅で母親らしき人物と一緒に電車で帰る彼を見た。その姿を僕は羨望と同情が混在した複雑な感情で見送った。あの誰も取らなかったピックの軌道はどこへ続いたのだろう。

又吉直樹

<第5回に続く>