与謝野晶子はのちの夫鉄幹を友人とともに想い歌に詠む/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史⑤

文芸・カルチャー

更新日:2021/2/6

その後の鉄幹と晶子

 ところで、登美子が山川との結婚で恋のレースから退いた後、晶子と鉄幹はどうなったのか。

 鉄幹は、明治三十三年八月、晶子のいる堺、濱寺で歌会を開く。

 この後に晶子が詠んだ歌が、明治三十三年九月号の『明星』に掲載される。

 

 かならずぞ別れの今の口つけの紅のかをりをいつまでも君

 

 これに対する鉄幹の歌は、

 

 京の紅は君にふさはず我が嚼みし小指の血をばいざ口にせよ

 

 つまりこの時、二人は結ばれたのだった。

 鉄幹には瀧野がいた。不倫である。

 明治三十四(一九〇一)年三月十日、『文壇照魔鏡 第一 与謝野鉄幹』と題された小冊子が発行される。

 いちばん過激な第三の部の見出しを挙げてみよう。

第三 与謝野鉄幹
 鉄幹は如何なるものぞ
 鉄幹は妻を売れり
 鉄幹は処女を狂せしめたり
 鉄幹は強姦を働けり
 鉄幹は少女を銃殺せんとせり
 鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり
 鉄幹は金庫の鍵を奪へり
 鉄幹は喰逃に巧妙なり
 鉄幹は詩を売りて詐欺を働けり
 鉄幹は教育に藉口して詐欺を働けり
 鉄幹は恐喝取財を働けり
 鉄幹は明星を舞台として天下の青年を欺罔せり
 鉄幹は投機師なり
 鉄幹は素封家に哀を乞へり
 鉄幹は無効手形を濫用せり
 鉄幹は師を売る者なり
 鉄幹は友を売る者なり

 そして巻末に、「去れ悪魔鉄幹! 速に自殺を遂げて、汝の末路た(だ)けでも潔くせよ」と記すのである。

 こんなことがあったからだろう、林瀧野は鉄幹を晶子に譲り、『文壇照魔鏡』の出た明治三十四年のうちに離婚、鉄幹と晶子は結婚することになるのである。

 晶子は書いている。

 

 私共の結婚は媒酌人が先に立って居ない、二人の愛の交感と思想上の理解が先になり基礎になって居ります。双方の霊と肉を愛重し合い愛重され合う関係に由って対等に協力して生きて行こうとするのが私共の実行して居る結婚生活です。愛の交感も思想上の理解もない男女が、男は女を見くびり、女は男に頼り過ぎて屈従しながら、それで良人であり妻であると云うことは私共の堪え得ない所です。
(『定本 与謝野晶子全集 第十五巻 評論感想集二』所収「人及び女として」)

 

 晶子は鉄幹との間に十二人の子どもをもうけている(一人は生後二日で死亡)。

 こうして二人は、行く先の見えない「晦渋」の時代を、新しい歌で切り拓いていくのである。

こう生きて、こう死んだ

与謝野鉄幹 明治六(一八七三)年~昭和十年(一九三五)年

京都に僧侶で歌人でもあった与謝野礼厳の四男として生まれる。寺が没落し、一時は他家の養子になるなど苦労して育った。早くから仏典、漢籍などを学び、女学校の教師となるも生徒と問題を起こし退職。上京して歌人、落合直文の門人となり、その後、新詩社を結成。機関誌『明星』を創刊し三度目の妻である晶子と共に浪漫主義運動の指導的役割を果たす。晩年は創作活動の不振に苦しんだ。気管支カタルにより死去。

与謝野晶子 明治十一(一八七八)年~昭和十七(一九四二)年

大阪の菓子商の家の三女として生まれる。旧姓は鳳、名は志よう。堺女学校卒業後、家業を手伝いながら雑誌に詩や短歌を発表。鉄幹主宰の新詩社社友となる。家を捨てて上京し鉄幹と結婚。第一歌集『みだれ髪』で注目を集めた。その後、『白樺』を中心に小説、評論、古典研究など多方面で活躍しながら十二人の子どもを産み、育てた。晩年は脳溢血を起こし、右半身不随となり、尿毒症の悪化により死去。

続きは本書でお楽しみください。