モヤモヤするのに、避けられない…。 周りに振り回される「同調圧力」の共通点とは?/誰にも嫌われずに同調圧力をサラリとかわす方法

暮らし

更新日:2022/7/21

いつもモヤモヤするのに、避けられないのはなぜ?

◎つい、職場で流されてしまう

 同調圧力は至るところに潜んでいます。

 私の例ですが、それぞれの環境ごとにあったことをちょっと書いてみます。

 まず、職場です。

 かつての私の場合だと、あるとき勤め先で「みんなが使うコーヒーやお茶、そしてお菓子の代金を月々300円徴収してもいいですか?」と総務から連絡がきたことがありました。

 でも、私自身は「コーヒーもお茶も飲まないし、置いてあるお菓子だって食べたことがないから、そんなのいらないのに」と思っています。

 しかし、気づくともう部署の人たちは、「誰がお金をどのタイミングで徴収するの?」という話になっている。

「え? もう徴収することは決まっているの?」とびっくりしてしまいます。

 

 とはいえ、そんな私も次第に「飲む人、食べる人が箱に毎月300円ずつ入れればいいじゃない」と、無意識のうちに「お金を集める方向」には同意していました。

 そして「利用する人、しない人」の頻度などで議論をしているのがだんだん面倒くさくなって、「それだったら総務の人に給料から毎月お茶代で天引きしてもらえば?」と払うことに同調しちゃっている。

 最初は、抵抗する気持ちがあったのに「面倒くさいな」といつの間にか流されてしまい、結局毎月給与明細を見るたびにモヤモヤして嫌な気持ちになっていました。

 

◎ご近所さんの目にそわそわ……

 また、ご近所付き合いにも、同調圧力を感じずにはいられませんでした。

 たとえば、町内会のゴミ拾い、雑草取りなどの行事に対して、私自身は「気がついた人がやればいいじゃない!」と思っていたのですが、近所の人たちが外に出てやりはじめると、そわそわして家の中にいることができなくなり、いつの間にか自分も率先してゴミ拾いや、雑草取りをしちゃっていました。

 しかも、いつの間にか、当初思っていたのとは反対の立場になって、「あ! お隣の奥さん、今日も来ていない!」という周りの人の話に乗っかってしまうことまで……。

 ほかにも、近所の子ども会の行事があると、自分にはまったく関係ないのに断れず、嫌々参加して帰ってきてから、ものすごくモヤモヤしてしまいます。

 なんで私の週末がこれで潰れなきゃいけないの? とみじめな気持ちになってばかりなのです。

 

◎家族・親戚だからこそ厄介

 さらには、家族・親戚関係

 普段そこまで親しくしていない親戚が病気になったとき、本心では気が進まないけれど「お見舞いに行かなきゃ」と思うことはよくあるでしょう。

 本当は、私がお見舞いに行ったって、病床にある病人とたいして会話も続かずに妙な空気が流れて、相手にかえって気を使わせてしまうのはわかっている。

 でも「親族だから心配しなきゃ」という、世間からの見えない同調圧力がそこに潜んでいるから、それに抗うことができずに病院へ行ってしまう。

 そんなの別に行かなくても誰も責めないでしょ、と思われるかもしれないけど、実際は誰かに知られた際に「え? 親族が病気のときにお見舞いに行かなかったの?」と、ものすごく怪訝な顔をされて嫌な気分になったりする。

 だから、モヤモヤすることが想像できていても、慌ててお見舞いに行って「やっぱりな」とモヤモヤする時間を過ごす。

 

 これは、お見舞いでなくても、年末年始に実家に帰る、というのも同じでしょう。

「もちろん帰ってくるでしょ?」という家族の同調圧力がそこに潜んでいて、「帰らない」と言ったら「親不孝者」というレッテルを貼られてしまいそうな感覚がそこに隠れている。

 だから、親からの同調圧力と、見えない世間からの同調圧力に負けて、「帰って顔を見せなければ」と実家に帰る。

 そして、結局不快な思いをしてモヤモヤしてしまうのです。

 

◎すべての「同調圧力」に共通すること

 ここまで挙げてきた例は、あくまで私の経験に基づくものでしたが、中身の差はあれ、多くの人が職場や家庭内、親戚、ご近所、友人、ママ友などの関係の中に、有形無形の圧を日々感じているでしょう。

 こうしたさまざまな場所に潜んでいる同調圧力というのは、そのエネルギーを感じたときになんとなく気が重くなるものです。

 そして人生経験が積まれていけば、それに従うとあとでモヤモヤすることになるのは、うすうすわかっています。

 にもかかわらず、どうして私たちはいつも屈してしまうのか―。

 

 それは、「同調圧力に従わなければ、みんなから見捨てられて孤立してしまう」という恐怖がそこに潜んでいるからです。

 会社でも、ご近所でも、家族や親戚関係でも、「見捨てられちゃったら、自分が困ったときに助けてもらえなくて大変なことになる」といった恐怖が根底にあります。

 

 たとえば、著名人が同調圧力なんてなんのそので、自分の思うままに生きている姿を見ると、「自分を貫いていてカッコいい」「気楽に自由に生きている感じが魅力的」と思ったりするでしょう。

 でも、実際に自分の身近で同調圧力(会社でよいとされている働き方、住んでいる地域でのルール等々)に従わない人が出てきた場合、どう感じるでしょうか?

 途端にその人を見下したり、敵視してしまったりしないでしょうか。

 この従わないと敵視されかねないという心理構造が、意識的にせよ無意識的にせよ、自分自身も痛いほどよくわかっているのです。

 だから、「同調圧力に従わない」=「恐ろしいこと」になってしまい、孤立する恐怖を前にして従わずにはいられなくなっているわけです。

 

◎「同調圧力に従っている」=〝子ども〞の状態

 では、孤立する恐怖に従わされている状態とは、どんなものでしょうか。

 一つわかりやすい原体験の例で言えば、子どもが言うことを聞かないときに、親が「言うこと聞かないと置いて帰るからね!」「そんな子、ママはもう知りません」などと捨てられること(孤立)をちらつかせながら言うことを聞かせる、あれです。

 つまり、同調圧力に従わされている状態というのは、幼い〝子ども〞の状態に戻ったようなもので、恐怖を背景としたみじめな感覚から抜け出せなくなってしまっている、ということなのです。

 

 その前提に立って改めて考えてみると、会社やご近所付き合いの中にある同調圧力の背景に、「みんなから見捨てられて孤立させられたら困っちゃう」という構造があるのはイメージしやすいのではないでしょうか。

 また、その感覚が実は〝子ども〞的なものからきている、ということにも気づかれたのではないでしょうか。

誰にも嫌われずに同調圧力をサラリとかわす方法

 その昔、孔子は「三十にして立つ、四十にして惑わず」と言いました。

 かつて、大人というのは「30歳までに独り立ち」ができていた存在であり、本来は「見捨てられる」とか「孤立させられる」という感覚に引きずられない、自立した存在だったはずなのです(これが本書でこれから登場する〝大人〞の定義です)。

 でも、現代の日本人の多くはそれに屈してしまう。

 うるさ型の人は減り、総じて人当たりのよい人が多くなったと言われますが、その反面、少なくない人が同調圧力に従ってしまう構図には、現代人特有の「いつまで経っても中身は子どものまま」という状態が潜んでいるわけなのです。

<第3回に続く>


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