阿部和重 Interview long Version 2005年3月号

インタビューロングバージョン

更新日:2013/8/19

■小説作法上のたくらみ

 芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』は、妻と離婚し愛娘との再会もままならない37歳の無職の男(沢見)の裡に去来する思いを、一人称「わたし」の視点から綴る。作品集を開いてまず目を引きつけられるのが、ページ全体に大きく印刷された「1」「2」という章タイトル。2章から成る本作の構成が強調される形になっている。そこには阿部氏の小説作法上のたくらみを窺い知ることができる。

「『1』と『2』という二部構成の章立てを強調する形になっていますが、それは『グランド・フィナーレ』が『ニッポニアニッポン』(2001年)の姉妹編として構想されたという執筆事情によるものです。『ニッポニアニッポン』には第1部、第2部という表記はありませんが、主人公の少年・鴇谷春生(とうやはるお)がトキに関するデータを集めて計画を練っていく前半と、実際に計画を行動に移す後半部分は、改ページで区切られています。『ニッポニアニッポン』の体裁をふまえ、姉妹編である『グランド・フィナーレ』も、同じぐらいの長さをもった2部構成の作品にすべきだと考えました。
『ニッポニアニッポン』と『グランド・フィナーレ』では、数字の「2」が重要なカギになっています。表記された数字的な2というより、並列的な関係にある1対1という意味性を重視しています。『ニッポニアニッポン』では、2は番(つが)いとしてのトキを表し、主人公がかつて思いを寄せた本木桜と佐渡にわたる途中で主人公が出会う瀬川文緒という2人の少女を表しています。『グランド・フィナーレ』にも、『双子みたいな』という言葉で形容される2人の少女、鴇谷(とうや)亜美と石川麻弥が登場します」

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 阿部作品では、年月や日時や数量など数詞への徹底したこだわりがある。そこではパーソナルなレベルでの数の扱いが、年表的事実と絡みあう。個人史と歴史のダイナミックな連関を体験することが阿部さんの作品を読むことの愉楽でもあるわけだが、そうした創作技法の根拠となっているロジックとはどのようなものなのだろうか。

「僕は『アメリカの夜』(94年)という作品でデビューしたのですが、この作品は主人公の誕生日である9月23日から出発しています。デビュー作を書いていた頃から、僕には数字に対するこだわりがありました。それ以後も、数字にとらわれつつ作品を書き続けてきました。なぜ数字にこだわってしまうのかその根本の理由を僕自身把握しきれていないのですが、『アメリカの夜』のような小説でデビューしてしまうと、次の作品で数字を出すときに、もはや意味をもたせずに書くことは不可能になるんですね。あるシーンで数字が出てくると、その必然性を考えて、それにふさわしい理由を探してしまうわけです。その究極形が『シンセミア』(2003年)です。
 数字や日付に限らず、何かを具体的に規定しないと気が済まない形式主義的な部分が僕にはあるんですね。先日、蓮實重彦さんと対談させていただいたのですが、僕の形式主義的な書き方はイマジネーションへの抑圧なのではないかという指摘を受けました。蓮實さんの言葉をふまえると、イマジネーションを、ある記号の中に押し込めて抑制しながら物語を組み立ててゆくのが僕の文学的方法といえるかもしれません」

■90年代という時代を個人史と世界史で捉える

『グランド・フィナーレ』では90年代以降の沢見の個人史を軸に、複数の出来事=事件が配置されていく。そこでは、沢見の愛娘・千春の誕生日とアメリカ同時多発テロ事件が、チェチェンのイスラム勢力によるモスクワの劇場占拠事件と児童ポルノ禁止法施行日が、同等の扱いで併置される。個人や社会の営みの側から歴史をとらえようとするスタンスが、そこにはある。

「世界史と個人史は、けして無関係でないと思います。これも先ほどの、2という数字の問題に還元できるように思うのですが、交わらないけれど微妙に接触するものとして個人史と世界史を併置してみたということです。僕が90年代にデビューした作家ということも大きくかかわっているのですが、『グランド・フィナーレ』のねらいのひとつとして、90年代的状況を現時点で概観しておきたいという個人的な気持ちがありました。90年代に関しては、いずれこの時代を背景にした大きな作品を書いてみたいと思っています。
『シンセミア』は、2000年という時代相を下敷きにして虚構の出来事を描くことに注力した作品ですが、盗聴法とも呼ばれる通信傍受法が施行された年に盗撮をテーマにした作品を書くことがねらいとしてありました。『シンセミア』にも『グランド・フィナーレ』にもロリータ・コンプレックスの性癖をもつ男が出てきますが、『グランド・フィナーレ』では99年に施行された児童ポルノ禁止法について言及しておきたかった。そのような法案が施行された時代状況を、“記録”としてとどめておきたい気持ちがありました」

 少女を性的欲求の対象とする沢見は、自分の娘だけでなく多くの少女らの肢体を収めたポータブルストレージ(データ収録機器)の存在を妻に悟られ、言い争いのあげく妻に大けがを負わせてしまう。沢見はDV防止法の適用を受け、その結果、妻と離婚し、娘の親権も剥奪されてしまう。阿部作品に頻出するロリコン男だが、この作品では重要なファンクションとして位置づけられている。

「ロリコン的な性癖をもった登場人物は、僕の作品の中にわりあい多く登場します。たとえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』(97年)の中に、高踏塾の塾長・マサキが主人公の親戚の女の子にいたずらをして逮捕されるエピソードがあります。『シンセミア』にもロリコン警官が登場します。ロリコンの性癖をもつ男を作中に出したがる性癖が僕にはあるんですね。『グランド・フィナーレ』の最初のアイデアを考えたのは『ニッポニアニッポン』を書いてしばらく経った頃で、『シンセミア』連載中の時期でした。『シンセミア』には登場人物がたくさん出てきますが、長編の枠では書ききれない部分が出てくるんですね。ロリコン警官のエピソードを拡大して、別の物語を書くことができるのではないかと考えたんです」

 物語は、一人称の語り手「わたし」の語りのリアリティに多くを負っている。心理を正確になぞるのではなく状況を説明する。「描写」より「説明」に比重が置かれた「わたし」のナラティヴが、小説の構造に独特のゆらぎを与えている。

「状況をそのまま言葉で客観的に表現するのが描写ですが、描写は常にズレを生むものです。説明というのは、描写のズレをさらに押し拡げるものですね。説明すればするほど、言い表されるべき事物、事象から遠ざかっていく。饒舌になればなるほど語り手を信用できなくなっていく。僕はそういうやり方で一貫して書き続けているように思います。そのことを斎藤環さんは、“いいわけの手法”というふうに定義されています。『グランド・フィナーレ』も一人称の『わたし』が語っている時点で、すでに怪しいわけです。それは僕個人の問題というより、小説の本質に属した問題なのではないかと思います」

■『シンセミア』に連なる“神町サーガ”

『シンセミア』を頂点とするいくつかの作品の舞台として、阿部さんはみずからの故郷でもある山形県東根市神町を選んできた。『グランド・フィナーレ』は、同時収録作『馬小屋の乙女』『20世紀』とともに“神町サーガ”を形成している。

「『グランド・フィナーレ』を書いた理由のひとつに、『シンセミア』と『ニッポニアニッポン』のつながりを『シンセミア』第2部を発表する前に書いておきたかったという事情があります。神町という舞台の中で、いくつかの出来事が同時多発的に起きている。それらの出来事はどこかでつながりあっているけれど、しかし全体としてはズレている。むしろズレつつ重なりあって世界がかたちづくられている。そういうイメージですね。パラレルワールドといってしまうと単純化されてしまうのですが、パラレルワールドともどこか違う、同じではありえない平行世界のようなものとして、複数の神町物語を書いていきたいと思っています。
『シンセミア』は第三部まで構想されています。それらはひとつながりの物語ですが、それとは別に書かれたもうひとつの神町物語、『シンセミア』と関係があるように書かれているけれど、ズレのある物語。それが短編、中編の仕事になると思います」

 東京を離れ、音声学習機能付きのジンジャーマンのぬいぐるみを唯一の友として孤独な帰郷者として無為の日々を過ごす沢見が、小学六年性の2人の少女に出会う。沢見は2人に芸能祭の演劇指導を行うことになるが、公演終了後、離ればなれになる彼女らが自殺をするのではないかという予感に苛まれる。不穏な読後感が余韻として残る作品である。

「エンディングに関して尋ねられることが多いのですが、作者が説明してしまうと、読者の解釈の自由を奪うことになるので、僕の考えをお話しすることはできません。ポジティブに解釈される方と、不穏な終わり方だといわれる方がいますが、後者の方のほうが多いですね。“阿部和重の作品は不穏なものであるべきだ”という読者の欲望や期待が反映しているためではないでしょうか」

 沢見は死を選択するかもしれない2人の少女に向けて、彼女らを説得するために言葉で対峙することを余儀なくされる。つまりはグランド・フィナーレ的瞬間へと押し出されていくことになる。映像的な欲望から出発した少女たちとの関わりが、言葉を介した関係へとシフトされる。

「しかしながら、カメラを使うことと言葉で対峙することは、本質的に何ら違わない気がするんですね。言葉もまた媒体のひとつにすぎないだろうということです。媒体を通して何かを伝達することの難しさは変わらない、という厳しい現実があるわけです。まあ、それをいってしまうと実も蓋もないのですが。あの場面ではある種のアクションが必要だったわけですが、言葉を介したほうが直接的に対峙しているという意識を生みやすいということですね。
 言葉ということでいうと、ジンジャーマンの発する言葉は常にズレを生みだします。言語的コミュニケーションにおいてズレはネガティヴなものととらえられがちですが、むしろズレのほうが生産的であったりするわけです。ズレは非生産的であるという解釈は一面的だと思います。ズレの可能性にかけたい気持ちが僕にはあります。そういう思いから、物語の最後をジンジャーマンの『おはよう』という言葉で締めくくりました」

■タイトルと物語をずらす

 神町の民芸品屋に東京から入手困難な稀少品の性具を買い求めにやってきた男の奇妙な体験を描いた『馬小屋の乙女』もまた、タイトルと物語内容に意図的にズレが設定されている。

「『馬小屋の乙女』というタイトルをなぜ付けたのかということですが、ぜったいにありえないタイトルを設定して、言葉の化学変化を起こすことがねらいでした。実は20年ぐらい前に公開された洋ピンのタイトルなんです。日本の公開タイトルは『馬小屋の乙女 How
and Why』というもので、個人的に気に入っていました。インパクトがあるタイトルなので、いつか使いたいと思っていたんです。
 矢野優さんが編集長に就任された『新潮』の2004年新年号に掲載された作品です。新編集長になられた矢野さんへのはなむけとして書かれた作品です。新年号ということでおめでたい感じを出したかったのと、猥雑でなおかつ勘違いをそそるものにしたかったんです。いろんな意味に受け取れるタイトルですよね。案の定、当時の担当編集者がキリストの出生にまつわるエピソードに関係あるんでしょうかとか、いろいろ深読みされました。
 芥川賞受賞作と銘打たれていますが、実はこの作品集は下ネタばかりなんですね。『馬小屋の乙女』は本当にくだらない下ネタの話になっていて、性具コレクターという、いるかどうかわからない人が主人公です。神町のエピソードを書いておきたかったという事情もあります。ちなみに作中に登場する奇妙な老婆は、100年の歴史を背負った文芸誌の象徴として出しました」

■注文で小説を書く

『新宿ヨドバシカメラ』『20世紀』は、ヨドバシカメラやソニーのCD-Rなど、具体的な会社や製品のイメージングに準拠した作品だ。

「作品集『グランド・フィナーレ』は、『グランド・フィナーレ』とその他の短編というふうに分けて考えた方がすっきりすると思います。その他の短編はすべて注文によって書かれたもので、注文にどれだけ応えられるかを自分に課した作品です。『馬小屋の乙女』は100周年を迎えた『新潮』の新年号に発表されるべき作品として書きました。『コヨーテ』創刊号に掲載された『新宿ヨドバシカメラ』は、カメラマンの森山大道さんとのコラボレート作品です。注文をいただいた段階で資料を送っていただき、資料の中の情報を組み合わせて書きました。土地と人をめぐるエピソードを分析しながらパッチワークしていく手法は、従来の僕のやり方を踏襲しています。『20世紀』は『Sony
Style』というウェブサイトから依頼された短編です。Future、Traditional、Form、Arrangement、Feminineという5つのテーマで製品化されたCD-Rのために書かれた五つの短編から成っています」

『新宿ヨドバシカメラ』『20世紀』では、身体や都市や歴史についての記述が重要なポジションを占めている。特に、山形県における神町の位置から連想される「耳」を出発点に、ヒト―モノ―コトが連鎖していく『20世紀』の展開は圧巻だ。

「注文を受けて与えられたテーマに引きずられることなく、自分の世界をきっちり描くことはプロの作家として当然だと思います。僕が常に参考にしているのが、ジャン=リュック・ゴダールの仕事です。ゴダールに『新ドイツ零年』という作品があります。監督自身の企画でつくられた全く独創的な映画に見えるのですが、実は注文を受けてつくった作品なんです。注文を受けてこのレベルかよ、みたいな驚きが僕の中にはあります。ゴダールには及ぶべくもありませんが、エッセイのような、物語性があるような作品を目指しました。
 ひとつの記号にまつわるエピソードをどのように見つけて、それをつなげていくか。『ニッポニアニッポン』などもそうですが、現実のデータを使ってそれを組み合わせていくうちに、驚くべき符合が見えてくることがあります。それが見つかったときはほんとうに嬉しいですね」