村山由佳「25年やってきた今だから書けた」―― “黒村山”も封印した、恋愛文学の至芸『はつ恋』

文芸・カルチャー

2018/12/9

 村山由佳さんの新刊『はつ恋』(ポプラ社)は、千葉県南房総の海のそばの日本家屋で愛猫と暮らす小説家のハナと、大阪を仕事の基盤とする大工の一人親方・トキヲの物語。

 幼なじみのふたりは、40代で再会して恋人になった。ハナにとって、トキヲは何もかも安心して預けられる初めての相手。トキヲにとってハナは、幼い頃から憧れていた“初恋のハナ姉ちゃん”。アラフィフのふたりの何でもない日常には愛が満ち溢れ、読み終わると、人生にこんな時間が待っているなら、歳を重ねるのも悪くない、としあわせな気持ちになる。

 作家デビュー25周年記念作品でもある本作について、村山さんにお話を伺いました。

■「パートナーとのしあわせな日常を小説に」とのぞまれて

――この作品が生まれたきっかけから教えてください。

村山由佳さん(以下、村山) 企画の段階で編集者から、私と今のパートナーのしあわせな感じを小説で書いてほしい、と言われたんです。特別なことは起きないけれど、愛おしい日常をと。難しい注文でした(笑)。殺人事件も起きないし、途中でトキヲがモラハラ夫になるわけでもない(笑)。ただふたりの日常を積み重ねて、鑑賞に堪えるだろうか? 日記やノロケ話でなく、小説として作品にするのはどうしたらいいのか? ずっと手探りしながらでしたが、とてもやりがいがありました。人間関係、特にハナとトキヲのあいだで起こる、というか、起こるとも言えないような些末なできごとに関しては、かなりの部分現実が投影されています。

――ふたりの日常から、幸福感がとても伝わってきます。描かれているのはなんでもない日々なのに、深く染みわたる読後感です。

村山 25年やってきた今だから書けたのだと思います。おいしい水みたいに、するする染みこむ文章が一番好きなんです。読み終わったときに、読み手の身体のなかにも、さらさら小川が流れていて、染みこむ染みこむ、みたいな。毎回、何も起こらないけれど、春なら七草や桜、夏ならあじさい、夕立、花火など、季節で咲く花や歳時記的なことを折り込みながら、あまりあざとくならずにいい塩梅で、トキヲとハナの心情をどういうふうに重ねていこうかというのをすごく考えました。

――ハナが住んでいる日本家屋のひなびた雰囲気、季節の花が咲く庭など、豊かな情景描写がたくさんありました。

村山 古い日本家屋で平屋建て、というのは、いつかそういうところでのんびり暮らせたらいいなという憧れです。今現在は、軽井沢でもともと写真スタジオだったやたらと大きい空間のところに住んでいるんですけれど、こぢんまりしたところで最終的には暮らしたいなあと。ハナの家の庭は、参考文献にも花の歳時記などを入れてありますが、ひとつひとつ、知っているつもりのことを確かめながら書きました。田舎暮らしは長いのに、いざ、花や緑について描写しようとしたら、人の記憶というのは驚くほどあいまいで(笑)。

――甘い恋人の時間と並行して、ふたりの年齢なりの老いや、年老いた両親や、お互いの家族との関係も描かれます。

村山 できるだけリアルでありたかったんです。そうでないと、大人の恋愛が絵空事になってしまうから。でも同時にファンタジーでもありたくて。そもそも私が小説家になりたかったのは、子どものときからたくさんの本に救われてきたからなんです。本に支えられて、気付かされて、今の自分がいる。『ダブル・ファンタジー』からのいわゆる“黒村山”的なものを通ってきたからこそ、身体の中に沈殿する澱のようなものの上澄みがクリアになって、人って捨てたもんじゃないよね、生きるって悪くないよね、歳を重ねるのもそんなに怖がることはないかもしれないね、という部分を躊躇なく書きたくなりました。全部必要な経験だったとは思うけれど、ようやくここへまた戻ってきた。でもデビュー作と同じところへ戻ってきたわけじゃなくて、螺旋階段みたいに、登っていけていたらいいなと。

■終わらない関係を、もう一度信じてみる気になった

――トキヲはハナにとって本気の怒りをぶつけられる初めての相手です。幼なじみという関係の安心感について教えてください。

村山 まだ自分のかたちが定まっていなかった頃を知っていてくれる、ということでしょうか。子どもじゃなくても、二十歳でも、大人から見ればまだまだですよね。そのときのことを一緒に覚えていてくれるとか、自分につながる係累を見知っていてくれる安心感とか。それは大きいですね。昔の自分を知っている人とのあいだでは、その後の半生の中でいつのまにかこうだと思い込んでいたことが通用しないんです。結婚とか、夫婦とか、男女の関係への思い込みやあきらめが、ひとつひとつ、いろんなふうにくつがえされていく。私もハナも、男と女なんてどうせ壊れる、どうせ終わる、それまでのあいだをどう楽しむかなんだから、人生ってさびしいね――と思っていたのに、もしかしたら、お互いの死は別にして、終わらないですむ関係があるのかもしれない、ということを、もう一度信じてみる気になった。

――本物の信頼ですね。

村山 人と人ですから、何かで終わるときは終わるかもしれない。でも、耐震住宅に住んでいるというか(笑)。未曾有の地震ならわからないけれど、そこそこの地震なら大丈夫と思えるんです。そして信頼して自分の感情を出せるようになると、いろんなことが変わっていく。ケンカができるだけじゃなくて、それこそ性愛の場面にしても、よい性的関係を結ぶためには信頼関係がないとだめなんだな、とか。知識としては知っていたけれど、ほんとうにそうなんだと(笑)。

――村山さんが初めてそう思われたというのに驚きます。

村山 今までの私の小説を読んでくださっているほとんどの方には意外かもしれませんが、大人の女性であるはずのハナが抱えている、一種のバカみたいなおぼこさというか、この期に及んで誰にも言えなかった部分を、ハナのなかに、ハナの物語として書くことができたかなと思います(笑)。『はつ恋』のなかに描かれている部分と、『ミルク・アンド・ハニー』の最後のほうに出てくる部分は裏表なんです。

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――『はつ恋』に描かれていない夜のふたりは、『ミルク・アンド・ハニー』で補完できるんですね(笑)。

村山 リアルトキヲはあちこちで顔出しをしていて、このふたりの日常は、エッセイの『猫がいなけりゃ息もできない』でお読みいただけます(笑)。『はつ恋』については「お前何でも書きよんのう」とあきれながら、「今まで姉ちゃんが書いた中では一番好きや」と言ってくれました。

■大長編を書いたときよりも、深い充実感

――トキヲはほんとうにハナを大事にしているし、とても愛しているんだなというのが、行動の端々から伝わってきて、ときめきます。

村山 このふたりをつないでいるのは、古めかしい言い回しかもしれないですが、得恋の喜びかな、と思います。トキヲにとっては大好きだった初恋の姉ちゃんを得たという得恋だし、ハナにしてみたら、ずっとずっと誰といてもさみしかったのが、やっと満たされた得恋です。そういう気持ちがこのふたりをずっと初々しいままにしているのかもしれません。

――こんなふうにお互いを大事にする恋ができたら、ほんとうに素敵だなと思います。現実とあえて違うところはありますか?

村山 こんなに離れて暮らしていないということですね。初期の半年くらいは離れていましたけれどそれからずっと一緒に暮らしているので。あとは住んでいるのが、山(軽井沢)か海(南房総)か。何より、ハナのほうが私よりはるかに可愛げがあります。

――『はつ恋』を書いたことで、何か発見はありましたか?

村山 すごく漠然とした言い方ですが、私にもできた、と。なんにも起こらないけれど愛しい日々を書こうと思って、それができたと。とても慎ましい物語なんですけれど、大長編を書いたときよりも充実感が深いというか。ものすごく込み入ったストーリーや、強いテーマ性や、大長編は、気合でどうにかなる気がするんです。25年かけて、それとは別の部分で培ってきたもので、今現在の自分だからできることを書けた、という充実感があります。

――まさに「なんにも起こらないけれど愛しい日々」を描ききられたのですね。

村山 私自身が大事にしている人たちとの関係性みたいなもの――ハナとトキヲも、猫も、実際の父は去年亡くなっているんですけれど父も、ぼけちゃった母も、トキヲと彼の娘も――そんないろんなキラキラした時間やせつない関係性を全部ここに溶かし込むことができました。母との関係も、これまではきつい話しか書けなかった母のことを全部受け入れるわけではないにせよ、愛おしむことができたり。そういう意味で、自分に近いけれども、自分とは違うひとつの人生を、とても愛おしいかたちで残せたなと思います。非常に大事な作品になりました。

――この作品が読めることは読者にとってもしあわせだと思います。

村山 カバーにも、もみじ(今年3月、天に召された村山さんの愛猫)と同じ柄の猫を置いてもらい、佇まいも、今までの“村山由佳的な感じ”とは違う本になりました。読んで勇気が湧いたり、ふんわりした気持ちになってもらえたりしたらうれしいです。歳を重ねても、何か僥倖のようなことが起こるんじゃないかと、そういうふうに、誰かの今現在とこの先を肯定できる作品であったらいいなと思います。

 そして、できることなら、ハナとトキヲを好きになってもらいたい。絵本の中に出てくる登場人物はみんなに好かれて、みんな彼らのハッピーエンドを願ったり、彼らに勇気をもらったりしますよね。『はつ恋』は大人の読む本だけれど、主人公たちを好きになったり、その生活をいいなと思ったり、最終的にしあわせを願ったり――。そんな、ほんとうにシンプルな読み方をしてもらえたらうれしいです。

取材・文=波多野公美 撮影=内海裕之