レミゼと並ぶフランスの傑作『ノートルダムの鐘』のトリビア3選! ミュージカルと原作の違いがありすぎる

文芸・カルチャー

更新日:2022/12/1

ノートル=ダム・ド・パリ
ノートルダム・ド・パリ』(ヴィクトル・ユゴー:著、大友徳明:訳/KADOKAWA)

 ミュージカルで一躍有名になった『レ・ミゼラブル』、通称「レミゼ」。作者のヴィクトル・ユゴーは、近年火災が起きたことで再注目されたノートルダム大聖堂を舞台にした作品も残していた。

 名前は『ノートルダム・ド・パリ』(ヴィクトル・ユゴー:著、大友徳明:訳/KADOKAWA)。ディズニーアニメや劇団四季のミュージカルでは『ノートルダムの鐘』と訳されていて、日本でもミュージカルがたびたび上演されている。

 主人公は「怪物」と呼ばれ周囲から見下されているノートルダムの鐘つき男のカジモド。ヒロインはそんなカジモドが夢中になる、街々を流浪する踊り子のエスメラルダ。カジモドを育てエスメラルダに暗い欲望を抱く司祭フロロや、エスメラルダが一途に恋をするフェビュス(アニメ・ミュージカルではフィーバス)隊長を巻き込み、物語は劇的に展開する。

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 ……と、ここまでは原作、ミュージカル、アニメすべてに共通している。ところが設定や展開が大きく異なるのだ。主人公もヒロインも幸せになるハッピーエンドのディズニーアニメとは異なり、原作とミュージカルはふたりが理不尽で残酷な結末を迎える。

 そして同じバッドエンドでも、原作とミュージカルで違いがある。

 この記事では数ある違いの中でも主人公とヒロインの背景、ヒロインのエスメラルダが恋をするフェビュスの人柄、そして悪役扱いのフロロについての三つに分けて論じたい。

 まずはカジモド。ミュージカルでは、ノートルダム大聖堂で司祭を務めるフロロの大切な弟の忘れ形見、つまりフロロにとっては甥だ。弟から彼を育ててほしいと言われたフロロは、カジモドと名付けノートルダム大聖堂の鐘のある場所に閉じ込めて育てているが、原作ではフロロの弟は生きていて、カジモドは彼やフロロの血縁者でもなんでもなく捨て子だった。

 厳しくも慈愛の精神を持つフロロは、怪物のようなカジモドが周囲に嫌われていることを知りながら、時々は外に出して育てる。そのためミュージカル以上に、原作でカジモドはフロロに忠誠心を抱いている。

 次にエスメラルダ。ミュージカルでは突如踊り子として登場し、カジモド、フロロ、そしてフェビュス(フィーバス)を魅了するのだが、原作では赤ちゃんの時に母親の留守中にさらわれ、親との再会を願っており、彼女の親もまた娘を失い人生に絶望しているという設定がある。善良でやさしいエスメラルダは、ミュージカルではカジモドに物おじせず接するが、原作では命を助けられてもカジモドの怪物のような姿を怖がり、姿を見ないようにしているというようすの違いがある。また、彼女が恋するフェビュスをカジモドが連れて来られなかった時は、恩を忘れ怒る場面もある。

 次に原作とアニメ・ミュージカルでもっとも異なる人物フェビュスに注目したい。アニメでもミュージカルでも、フェビュスはエスメラルダに純愛を捧げており、そのために自分の約束された栄誉ある将来すら捨てようとするイケメンだ。

 ところが原作の彼は女遊びの激しいチャラ男で婚約者もいる。エスメラルダのことは女遊びをする相手のひとりとしてとらえていて、彼女をもてあそぼうとする最中にフロロに刺され、エスメラルダはその罪をなすりつけられて死刑判決を受ける。彼女が連れていかれる姿を見てもフェビュスは自分が巻き込まれないように願って、エスメラルダから頼まれたカジモドがフェビュスにエスメラルダのもとに来るように言っても「おれには婚約者がいるんだ」と突き放す。

 アニメやミュージカルを見たあとに原作のフェビュスを知った読者は驚愕するだろう。それほど落差が激しく、原作では彼を一途に想うエスメラルダがより哀れになる。

 最後にフロロだ。結婚が許されない聖職に就いていながらエスメラルダに恋をしてしまい、受け入れられないと知るやいなや彼女が死刑判決を受けるように動くのだが、原作ではフロロが弟やカジモドを大切に思っていたことも描写される。

 エスメラルダを死に追いやるフロロは理不尽で共感のしようもないが、原作では血のつながらない捨て子のカジモドに文字を教えるばかりではなく、大聖堂の鐘のある場所に幽閉しているミュージカルとは異なり自由にいっしょに外で散歩もしている。エスメラルダの件は、優秀な聖職者が道を踏み外してしまった結果としてもとらえられる。

 カジモドは、フロロを愛していたが自らの手でフロロを殺す。ミュージカルでも原作でも、ここにカジモドの人間としての複雑さがある。

 終盤でカジモドはすすり泣く。

ああ、おれの愛した人が二人とも!

「カジモド」という名前は、フランス語で「できそこない」だとミュージカルの中では述べられる。しかし実はもうひとつの意味がある。”Quasimodo”(日本語で「白衣の主日」。キリスト教の神聖な日を指す)をかけた名称でもある。フロロは彼が子どもでありながら風貌が他の人と異なることから「ほぼ(カジモド)」の意味を加えたのだ。

 捨て子を拾いカジモドと名付けた経緯を見ていくと、ミュージカルの「できそこない」と異なって原作では後者の意味を適用していることがはっきりとわかる。フロロもまた、カジモドに慈愛を注いでいたのだ。

『ノートルダム・ド・パリ』のもうひとりの主人公はフロロだと私は思っている。ミュージカルでは甥だから仕方なくカジモドを育て「できそこない」と名付けた一方で、フロロが時々カジモドを息子のように思うと歌う場面がある。

 この言葉はフロロが悪役であったアニメではなく原作の影響を受けているように感じられる。フロロを悪と断じることは簡単だが、それならなぜ捨て子のカジモドに神聖な名前をつけて大切に育てたのだろうか。エスメラルダへの執着心を悪とするならカジモドへの思いは善である。善と悪が共存した存在、それが人間なのだと作者のユゴーは伝えたかったのではないだろうか。

 多くの人に原作とは別物としてとらえられているアニメはもちろん、原作とミュージカルの展開もそれぞれ異なるため、ぜひ見比べてほしい。

 この記事には書ききれなかった誰かに言いたくなるようなトリビアが詰まっている。

文=若林理央

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