「人は、一度巡り合った人と二度と別れることができない」——別ればかりのコロナ禍だからこそ沁みる傑作青春恋愛小説

文芸・カルチャー

公開日:2023/1/31

パイロットフィッシュ
パイロットフィッシュ』(大崎善生/角川文庫)

 生きることは失い続けることなのか、と絶望してしまう夜がある。昔は分からなかった「さよならだけが人生だ」という言葉が、今では痛いほどよく分かる。歳を重ねれば重ねるほど、別れの数ばかりが増えていくし、永遠の別れだって少なくはない。おまけにコロナ禍だ。少しずつ元通りの生活が始まろうとしているのに、多くの人とさよならをした時間が、未だにそんな憂鬱を助長させている。

 だが、『パイロットフィッシュ』(大崎善生/角川文庫)を読むと、少し救われたような気持ちになる。私たちの胸の内に眠る記憶、人と人との出会いと別れ、生きることの悲しみ……。この作品は20年以上前の青春恋愛小説だが、コロナ禍を経験した今だからこそ、ますます心に染み渡るのだ。

 主人公は41歳、雑誌編集者の山崎隆二。ある夜、彼のもとにかつての恋人・由希子から電話がかかってくる。19年ぶりだというのに声を聞いただけで由希子だと分かった隆二の脳裏に、彼女と過ごした学生時代の記憶が浮かび上がってくる——というのがこの物語のあらすじだが、もしかしたら、あらすじだけみれば、ごくありふれた物語に思えるかもしれない。だが、ページをめくれば、その静謐な筆致にすぐに惹き込まれるに違いない。そして、人間の奥底で眠る「記憶」というものについて考えずにはいられなくなる。

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人は、一度巡り合った人と二度と別れることができない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否応にも記憶とともに現在を生きているからである。

「由希子」
「うん?」
「スパゲティを食べるとき、僕は今でもスプーンの上でクルクルして音をたてないようにしているし、煙草が切れても絶対に灰皿のシケモクは拾わない。なぜかわかる?」
「うーん」
「それはね、君が嫌がるからだよ」
「私が嫌がる?」
「そう。そうやってね別れて19年たって一度も声さえ聞いたことがなかったのに、僕は今でも確実に影響を受け続けているんだ。それもものすごく具体的なことで今でも君は僕の行動を制約している。だから今でも人前ではチューイングガムは噛まない」

 隆二の中には19年以上会っていなかった恋人の記憶が眠っている。そして、それが今も彼の行動を制限し続けている。「これまでに出会ってきた多くの人たちから影響を受け続け、そしてそんな人たちと過ごした時間の記憶の集合体のようになって今の自分があるのかもしれない」。そんな隆二の言葉に触れれば、私たちも自分の身に置き替えながら考えるだろう。私たちは誰もが知らず知らずのうちに、出会った人から影響を受けているのではないか、と。そして、その記憶が私たちを規定しているのではないか、と。

 タイトルの「パイロットフィッシュ」とは、熱帯魚を飼う際、水槽の生態系を作るために最初に入れる魚のことだ。その魚は、後で入れる熱帯魚が過ごしやすいように水槽に入れられ、熱帯魚のための環境が整った後は、捨てられてしまうのだという。私たちの生態系を整えた後、姿を消した人。そんな人があなたの周りにもいるのではないだろうか。あの人はもしかしたらパイロットフィッシュだったのかもしれない。そんなことを思いながら物語を読み進めると、途端に切ない気持ちにさせられる。しかし、そんな人の記憶も、確かにあなたの中に宿っている。もちろん記憶は、古傷のようにヒリヒリと私たちを苦しめることもある。だけれども、かけがえのない人と過ごした時間は永遠。記憶として私たちの中でずっと生き続けるに違いない。

「人は、一度巡り合った人と二度と別れることができない」。クライマックスまで読めば、その言葉の意味を心が理解するだろう。私たちには記憶がある。だからきっと大丈夫。何も寂しいことなんてない。この本がもたらしてくれるそんな気づきは、今、誰かとの別れに打ちひしがれている人をほんの少し癒すことだろう。

文=アサトーミナミ

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