日光「金谷ホテル」ホテルマンたちの伝説。日本で最も長い歴史を持つリゾートホテルの「おもてなし」

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公開日:2023/3/14

金谷ホテル物語 明治のホテルマンたちの遺訓
金谷ホテル物語 明治のホテルマンたちの遺訓』(坂巻清美著、申橋弘之監修/文藝春秋)

 数年前、旅行で日光を訪れた。日光東照宮やら温泉やらを楽しみながら、なんだかこの土地の持つ不思議な「どっしり感」が印象に残っている。

 実は、日本で最も長い歴史を持つリゾートホテルは日光にある。その名は「金谷ホテル」。『金谷ホテル物語 明治のホテルマンたちの遺訓』(坂巻清美著、申橋弘之監修/文藝春秋)は金谷ホテルの歴史、開国をきっかけに西洋文化「ホテル」を作ろうとした人々の奮闘、そして外国人から見た金谷ホテルと日光を記した本である。著者、監修者共に創立者一家・金谷家の血を引いている。冒頭のカラー口絵では、貴重な資料が紹介されているのもみどころだ。

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日光は実は数多の外国人が訪れていた

「日光を見ずして結構と言うなかれ」ということわざを聞いたことがあるだろうか。東照宮を見ないで綺麗と言うな、という意味だが、江戸時代に使われ始めたとされている。この言葉は、明治時代にはすでにヨーロッパで知られていたという。

 1889(明治22)年、ロンドンで出版された『ブリタニカ百科事典』の日本の項目に、

日光は風光明媚な土地であり、He who has not seen Nikko should not pronounce the word “beautiful”「日光を見る前に美しいという言葉は使うな」という諺もある。

と記載があるのだとか。嘘みたいな本当の話である。

 奥日光にある中禅寺湖及び日光は明治時代、外国人が多数訪れる避暑地になっていて、たくさんの外国人が日光を訪れ、それを記録として記している。ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士、女性旅行家のイザベラ・バード、英国公使館の通訳・アーネスト・サトウなどが滞在し、その美しさやもてなしに感嘆している。サトウは『日光旅行案内』という本まで出版した。

 そんな人が泊まっていたのか、と一番驚いたのはオーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子である。1893年8月に来日。長崎に上陸してから、熊本や京都などを経て、名古屋、箱根にステイ。そして東京の次に、日光を訪れていたようだ。

 皇太子の日本滞在記にも「日光を見ずして……」のことわざが登場するというから、当時は人々の口によくのぼる言葉だったのだろう。2日間という短い滞在でも、皇太子が日光の美しさや山々の姿を堪能したことがうかがえた。実はこの皇太子、第一次世界大戦勃発のきっかけとなった「サラエヴォ事件」で暗殺された人なのである。日光をもう一度訪れてほしかった、と思った栃木県民もいたかもしれない。

日光に「存在しなかった」ホテルを作るということ

 日光を訪れる外国人が増えれば、欧米人に対応できる宿の必要性が高まる。それを予見してか、明治のはじめには外国人を受け入れるホテルと名乗る旅館が登場し始めた。金谷ホテルの創立者・金谷善一郎がその前身となる「金谷カテッジイン」を始めたのもこのころだ。

 自分たちに全くない文化圏を取り入れ、もてなすというホテル文化の開拓はさぞ大変だったろうと思う。第4章「日本の国際化とホテル」では東京で誕生したシティホテルの艱難辛苦が、そして第5章「金谷ホテルの開業と経営」ではシティホテルとはまた違う、リゾートホテルをどうやって経営していたかが描かれる。

 バックグラウンドが違えば、「当たり前」が違う。言葉の壁、文化の壁にぶつかることも多かったようだ。それに、ホテルというものが日本に存在していなかったわけだから、前例から学ぶこともできない。

 後半に登場する第7章「日本式洋食の展開」も興味深かった。オムライスやコロッケ、カキフライやエビフライなどは実は日本製の洋食。肉を食べなかった日本に誕生したホテルで、どのように西洋の食文化を取り入れ、コース料理が作られてきたか、その端緒がわかる。

 西洋文化を学び、吸収しながらも、明治のホテルマンは日本ならでは、日光ならではのおもてなしにこだわった。その道のりは山あり谷あり。とても大変そうだが、決意とやり甲斐に満ちていて、読み終わったらすっかり日光に泊まってみたくなった。

「新時代」に取り組んだ人々が伝えてくれること

 明治時代、チョンマゲ着物から断髪洋装へ転換して、発展してきた日本。ホテルという極めて西洋的なものに真正面からぶつかった人々がいるおかげで、今こうしてくつろげるのだ。(実はこの原稿もホテルステイ中に書いていた)その歴史は、今の私たちをきっと励ましてくれるはずだ。

文=宇野なおみ

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