我が子を殺された親が復讐に走るのは、是か非か? 法律で裁ききれない少年犯罪に被害者の親はどう向き合うのか。東野圭吾の問題作「さまよう刃」

文芸・カルチャー

公開日:2023/5/15

さまよう刃
さまよう刃(角川文庫)』(東野圭吾/KADOKAWA)

 復讐は何も生まない。そんな言葉をよく耳にする。だが、いざ自分が当事者になったとしても、同じ台詞を言えるだろうか。

 東野圭吾氏によるミステリー小説『さまよう刃(角川文庫)』(KADOKAWA)は、少年犯罪と性暴力の闇に切り込む問題作として、刊行当初から大きな話題を呼んでいた。2009年には、寺尾聰を主演に映画化もされている。

 花火大会の夜、帰りが遅い一人娘の絵摩を心配する父親・長峰のもとに、警察から一報が届く。その知らせは、長峰にとってあまりに残酷なものだった。絵摩は、複数人に性的暴行をされた挙句、薬物の過剰摂取を強いられ、急性心不全で命を落とした。「命を落とした」という表現は、本来適切じゃない。彼女は、尊厳と共に犯人たちに「命を奪われた」のだ。絵摩は、15歳の誕生日を迎えたばかりだった。

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 失意のどん底に叩き落とされた長峰は、絵摩の死後、不審なメッセージを受け取る。留守電に録音された声は、絵摩を殺した犯人の名前と住所を詳細に告げていた。その情報の正確性に疑念を抱きながらも、長峰は一度は警察に届け出ようと考える。しかし、その思考は瞬時に翻った。

 もしも犯人が未成年だったら。薬物使用やアルコール摂取のせいで「判断能力がない状態だった」と認定されたら。犯人は大した罪にもならず、世間もすぐに忘れる。それならいっそ、自分の手で。この思いに囚われた瞬間、長峰は人の道から外れた。

 復讐の是非を問われれば、世間一般の正解は「非」であろう。人には人を裁く権利などない。人を唯一裁けるのは、「法」のみである。しかし、法には穴がある。加害者の多くはその穴をすり抜けて、己の罪から逃れようとする。

 法は、誰の下でも平等だ。その平等さは、時に無慈悲である。「加害者の人権」が「被害者の人権」と同等のものとして扱われる。その構図を眺める被害者家族の心情を、「法」は慮ってくれない。

 長峰は、犯人を追う過程で、とあるビデオテープを発見する。そこには、娘の絵摩が男たちに暴行される様子が克明に映し出されていた。人権も尊厳も「ないもの」にされ、まるで「道具」のように扱われているにもかかわらず、絵摩は犯人たちに従順だった。

 薬物で意識が朦朧としていたのか、恐怖で思考が停止していたのかは定かではない。いずれにしろ、女性が男性に襲われた場合、大暴れして抵抗するなど現実には不可能だ。殴られるかもしれない。殺されるかもしれない。その恐怖ゆえ、大抵の被害者は「抵抗」より「受容」を選ばざるを得ない。

 そんな娘の姿を見た長峰の絶望は、いかばかりであったろう。愛する人を傷つけられる痛みは、自身を傷つけられる以上の痛みを伴う。それが最愛の一人娘ともなれば、尚更だ。

“たとえ加害者が更生したとしても(今の私は、そんなことはあり得ないと断言できますが、万一あったとしても)、彼等によって生み出された「悪」は、被害者たちの中に残り、永久に心を蝕み続けるのです。”

 私が本書をはじめて手に取ったのは、もうずいぶん昔のことだ。しかし、長峰のこの叫びは、十数年経った今でも鮮明に覚えている。

 加害者にも人権があり、未来がある。それは理解できる。だが、奪われた被害者の命は、永遠に戻らない。人権も、尊厳も、未来も、根こそぎ奪われる。それは、被害者のみならず、被害者家族にも言えることだ。

 私にも、二人の息子がいる。万が一、彼らの身に何かが起こったら。そこに憎むべき「加害者」が存在するとしたら。長峰のような行動を「決して取らない」と、私は断言できない。実際に奪われたことのない者に、「奪われた者」の苦しみなど、理解できるはずもないのだ。

 作中に登場する警察関係者が、己の無力感に苛まれ、絞り出すように放った言葉の意味を、ずっと考えている。

“法律は完璧じゃない。その完璧でないものを守るためなら、警察は何をしてもいいのか。人間の心を踏みにじってもいいのか。”

 人を守り、裁くために法律がある。しかし、法を守ろうとするがゆえに、肝心な「人の心」が取りこぼされる。

 少年犯罪も、性暴力も、フィクションだけの世界にとどまらない。著者が物語を通して鳴らした鋭い警笛を、私たちは今一度、思い起こす局面にきているのではないだろうか。

文=碧月はる

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