永山瑛太×松田龍平で映画化『まほろ駅前多田便利軒』便利屋・名物コンビの活躍を読み直す

文芸・カルチャー

公開日:2023/6/14

まほろ駅前多田便利軒(文春文庫)
まほろ駅前多田便利軒(文春文庫)』三浦しをん/文藝春秋)

まほろ駅前多田便利軒(文春文庫)』(文藝春秋)は、三浦しをん氏の代表作である。2006年に単行本が刊行され、直木賞を受賞。永山瑛太と松田龍平を主演として映画化、ドラマ化されたことも相まって、世代を問わず大勢の人に愛されている。

 本書にはじめて出会ってから、およそ15年以上の歳月が流れた。これまで読み返してきた回数は数えきれない。この作品のどこに惹かれるかといえば、やはり登場人物たちの魅力的なキャラクターであろう。本書の主人公は、便利屋を営む多田啓介と、多田のもとに居候として転がり込んだ同級生の行天春彦。表面上は常識人の多田と、型破りで自由人の行天のバディが、絶妙な掛け合いを繰り広げながらさまざまな依頼人と向き合っていく様は、何度読んでも飽きることがない。

 チワワを数日預かったり、小学生の塾の送迎を請け負ったりと、特段変わった依頼ではないはずなのに、なぜか多田はいつもトラブルに巻き込まれていく。預かったチワワを飼っていた家族は夜逃げをして行方知れずとなり、送迎を任された小学生は薬物の運び屋で、多田は軽トラの窓ガラスを割られる羽目となった。そんな時、多田はいつも汗まみれで悪戦苦闘しているのに対し、行天は飄々としている。行天がそんなふうなのは、他人に興味がないからなのだと、はじめは思っていた。しかし、そうではなかった。行天は誰よりも、自分自身に興味がなかった。自分の命や立場を、どうでもいいもののように扱う。そのわりに、他人には案外優しい。

advertisement

 薬の運び屋をしていた小学生の名前は、由良。自分が運んでいるものが“よくないもの”だと察しながらも、薬物だとは知らぬまま、親への反抗心からスティックシュガーの袋を運び続けていた。しかし、結果的に身の危険に晒されることとなり、怯えて俯く由良に対し、行天はこう言うのだ。

“「助けてって言ってみな」”

 この一言が言えないまま、助けを得られず、沼から這い出せない子どもが大勢いる。行天もまた、そういう子どもだったであろうことが、行天がかつて一緒に暮らしていた元妻の台詞からうかがえる。

“春ちゃんは、よく言っていたのに。『親に虐待されて死ぬ子どもはいっぱいいるのに、虐待した親を殺す子どもがあんまりいないのは、なんでかな』って。”

 子どもは、親を選べない。愛され方も、親の人格も、子どもの側には選択権がないのだ。それなのに、周囲は子どもの痛みに驚くほど鈍感だ。高熱を出した由良が家で一人きりで寝込んでいることも、薬物の売人に脅されていることも、気付いて動いたのは由良の親でも学校の先生でもなく、便利屋の多田と行天だけだった。

 本書においてバディとして描かれている多田と行天は、学生時代に特に仲良しだったわけではない。むしろ、多田にとって行天は、負い目を感じる存在であった。高校生の頃、行天は工芸の時間に裁断機で小指を切断した。指は幸い手術でくっついたが、それまで通りに動かすことは叶わず、体温もそこだけいつも冷たい。その怪我の原因を作ったのは、多田だった。

 後ろめたさを感じながらも、行天の存在に振り回されたり、救われたりする多田の不器用な真っ直ぐさが、私は好きだ。自由奔放に見えて、人の心の深部を理解する度量を持っている行天もまた、途方もなく魅力的である。

 多田は、便利屋稼業を営んではいるものの、その日暮らしで安定とは程遠い。行天は無職の居候で、多田からもらう小遣い程度のお金でタバコを買い、明日どうなるかも分からない生活を続けている。そんな二人は、社会的には「ちゃんとした大人」とは言えないかもしれない。それでも、彼らは人の痛みを想像できる。誰かのために汗を流せる。損得ではなく、目の前の人の笑顔を願って動ける。そういうのが、「ちゃんとした」大人だと私は思う。数字や上っ面だけでは、“ひと”の内面は測れない。私にとって多田と行天は、紛れもなく、今も昔もヒーローだ。

 本書のラストに、こんな一文がある。

“幸福は再生する”

 どんな過去があっても、どんな人であっても、幸福は再生するのだと、この言葉をお守りにして、これまで生きてきた。この先も、私は何度でも本書を開くだろう。大好きな多田と行天に会うために。そして、最後の一節にたどり着くために。

文=碧月はる

あわせて読みたい