筒井康隆氏の最後の長編小説『モナドの領域』。文字で「神」の全知全能さを表現する、難しすぎる挑戦に迫る

文芸・カルチャー

更新日:2023/11/22

モナドの領域
モナドの領域』(筒井康隆/新潮社)

 何か危機的な状況に陥った時に、思わず「神」に助けを乞うことはあるだろうか?

 僕は、ない。結局のところ、もし神がいたとしても、一個人の願いを聞いて助けてくれるほど暇じゃないと思うからだ。ただ、ある調査によると、世界人口のうち70%以上が「神を信じる」と回答したらしい。ちなみに無宗教とよく自嘲する日本人だが、実は「神を信じていない」人は29%にとどまっているらしく、67%が「神を信じていない」と答えた中国に比べて低い水準となっている。我々にとって「神」とはいったい何なのだろう。

 筒井康隆氏の最後の長編小説にして、最高傑作と銘打たれた小説『モナドの領域』(新潮社)が「神」を描いた挑戦的な小説として話題だ。神を信じる立場で読むのと、神を信じない立場で読むのとでは、捉え方が異なりそうだが、僕は神を信じない立場として読んだ。本書は「神」を解明する一助になるかもしれない。

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 本書の面白いポイントは、文字でどうやって「神」の全知全能さを表現するか、という点だ。

空き巣に入られた正確な日時を言い当てたら、その人は「神」なのか?

 簡単なあらすじを記す。まず河川敷で肩口から切断されたような若い女の腕が見つかる。その同時期に、見つかった若い女性の腕と寸分違わぬ形のバゲットがパン屋で売られて話題になり、そこに客として来ていた美術大学の結野教授という人物が神に憑依され、全知全能ぶりを人々に見せていく、という凄まじい展開を見せる。

 この結野教授があるタイミングでガラッと様相を変えてしまう瞬間がある。定まらない視線と、67歳にはとても見えなくなってしまった雰囲気、彷徨する認知症の老人にさえ見えるようになってしまうのだ。

 そう、彼こそが神に憑依され、「GOD」と名乗るようになった男なのだが、たとえば自分が神になったとして、どのようにそれを周囲に認めさせるだろうか?

「私は神だ」と単純に訴えても、到底信じられないことは想像に容易いだろう。神であることを認めさせるには、神しか成しえないことを実行し、証明する必要がある。ただでさえ、「神」だと伝えると、「そんなわけがない」と否定的な立場から、神ではないことを暴露しようとする人が大半であることがほとんどだろう。手放しで認める人間などそういないし、精神異常のレッテルを貼られ、無視されることは容易に想像されるだろう。

 では、どうすれば自分が「神」であると証明できるだろうか?

「GOD」と名乗る結野教授に憑依した存在は、手始めに近づいてきた相手の名前を言い当てる。続いて、相手が頭の中で考えていたことを言い当て、またある人には、空き巣に入られた正確な日付を言ってみせる。ただし、予言をすると未来が変わってしまうから控える、という、タイムマシンが出てくる話にはつきものである条件を守る様子も見られる。

 ただし、「空き巣に入られた正確な日付」を言い当てたとして、それが「神」だという証明になるのだろうか、という疑問は残る。「神」ならば当然、その正確な日付は知っているだろうが、しかし、空き巣に入られた正確な日付を知っているから「神」であるわけではないのだ。たとえば空き巣をした本人はその情報を知っているのだから、空き巣に入られた正確な日付を知っていること=神、という等式が成り立つのであれば、空き巣犯は神になってしまう。

 そこで僕はこう思った。そもそも、「神」だけしか知りえないことは、文字通り「神」にしか知りえないのだから、一般の人間がそれを理解することはできないのではないか、と。

「神」が「神」であることを証明する手段は何か?

 そこで「GOD」と名乗る存在は、予言ができることを証明する。もちろん、未来を変えるおそれのある予知はしないため、「雑木林から出てきた青年が、もうすぐ柵につまずいて倒れ込む」という、簡単な予言にとどまった。しかしそれを聞いた女性が、青年に向かって「危ない」と声を出し、それに気づいた青年は転倒を回避する。神の予言は外れたかのように見えたが、実は、女性が声をかけて転倒を免れる未来まで見えていた、と「GOD」と名乗る存在は言い、女性は彼を「神」だと確信する。

 しかし、と無神論者の僕は反論する。それは「未来予知」ができることを証明しただけで、「神」であることを証明したことにはならないのではないか、と。そもそも、実際には青年は転倒しなかったので予言通りではなかったではないか。

 なぜ「神」であることに納得できないかというと「神」の定義がそもそも曖昧だからだ。曖昧だからこそ、あらゆる角度から「神」に近づくべく試行錯誤しなければならないのだ。

 本書では、そうした「神」という存在を追求しようと、裁判、テレビ番組という状況を借りて試みている。そのあまりにも大きなテーマへの果敢な挑戦は、最後の長編小説にふさわしいものなのではないか。神を信じる人も、信じない人も、本書を読んで「神」について考えてみるのはいかがだろうか。

文=奥井雄義

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