生誕100年・安部公房の芥川賞受賞作『壁』ってどんな話?自分の名前を盗まれて存在権を失った孤独な男の末路を描く

文芸・カルチャー

公開日:2024/3/24

壁(新潮文庫)
壁(新潮文庫)』(安部公房/新潮社)

 病院で名前を聞かれた時、咄嗟に自分の名前が出てこなかった。私の場合、それは、子どもが生まれたからというもの、病院といえばいつも子どもの付き添いばかりだったから、子どもの名前を言いそうになったというだけなのだが、その時感じた恐怖は忘れられない。名前というものは、その人をその人たらしめるものだろう。それを思い出せないだなんて、自分は最早何者でもないのかもしれない。ふと、そんな不安を抱かずにはいられなかった。

 もし、本当に自分の名前をなくしてしまったとしたら——不条理文学で名高い安部公房による『壁(新潮文庫)』(安部公房/新潮社)の中で描かれているのは、そんな世界だ。本書は、6編の全く異なる物語で構成されているのだが、最も印象深いのが、「S・カルマ氏の犯罪」。芥川賞を受賞した本作では、名前をなくした男の、世にも奇妙な日常が喜劇的に描き出されている。

 主人公は、ある一人暮らしのサラリーマン。彼は朝、目覚めると、空虚な気分に襲われた。食堂でツケ払いをしようとするが、自分の名前が書けない。事務所に行くと、名札には「S・カルマ」と書かれているが、どうもしっくりこなかった。おまけに、自分の席には、もう一人の自分が座っていた。よくよく見てみると、それは、自分の名刺。どうやら名刺が彼の名前を盗み、彼に成りすましているせいで、彼は自分の名前を失ってしまったらしい。

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 一体、何が起きているのだろう。この物語を読んだ人はそんな不安定な気分にさせられるに違いない。何が起きているか分からない。理解できない。だけれども、その意味不明さがクセになるのが、不条理文学だ。特に、安部公房の作品は、不条理でありながらも、読む者を、どうしてだか他人事ではない気持ちにさせてくる。自分もいつか、「S・カルマ」と同じような目に遭うのではないか。読めば読むほど、目の前で繰り広げられるのは、非日常的な展開ばかり。なのに、絶対にありえないとは言い切れない気がしてくるから、この物語は不思議だ。

 名前とは、社会性そのものだろう。それを失った男には存在権がない。彼に訪れるのは、あらゆる理不尽だけだ。街を歩けば、窃盗容疑が降りかかり、裁判にかけられる。だけれども、名前がないからこそ、裁判から逃げ出すことに成功。ともに逃げ出した同僚のY子と恋仲になるかと思えば、名前がないせいだろうか、他人を正しく認識する力も失われ、Y子はいつしかマネキン人形に変わってしまう。名前を失った者、存在権を失った者には、人間社会に居場所など存在しないということなのか。他人から不当に扱われるその姿は、悲哀に満ちている。

『壁』に収録された物語は、その他も不穏だ。ある者は自分の影を盗まれ、ある者は家を失い、ある者は液化し、ある者は魔法の中でしか生きている実感を得られない。さらには、人肉でソーセージを生産することの有意義性について主張する話なんてものもある。帰属すべき場所を持たぬ孤独な人間たちの、とびきりおかしい世界。その奇怪な世界に狂おしいほど惹きつけられるのは、きっと私だけではないだろう。

 安部公房は2024年、生誕100年を迎えるという。そんな記念すべき今年、彼の作品を是非とも手にとってほしい。底なし沼に堕ちていくような不安感と、次に何が起きるのかという期待感。あなたも、きっと安部公房の織りなす、不思議な世界から、抜け出せなくなるだろう。

文=アサトーミナミ

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