「ミッキーマウスはネズミ年に生まれた」嘘をつく練習をするように言われて…/君が手にするはずだった黄金について④

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/21

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第4回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。

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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 僕は「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問を飛ばして、他の項目を埋めることにした。志望する部署のことや、最近気になったニュースなどを書いていく。思ったよりすんなり埋まっていった。

 文章を書いている間、僕は常に孤独だった。そこに他人が介在する余地はなく、世界は僕と紙とペンだけによって構成されている。読書という行為が本質的に孤独であるならば、本を執筆するという行為もまた、本質的に孤独だ。本は多くの場合、一人の人間によって書かれ、一人の人間によって読まれる。その一対一の関係性の中に、なんらかの奇跡が宿る。

 僕は本棚を見る。数々の文豪の名前がある。床にも、同じくらいの数の文豪が散らばっている。すべての文豪も、この孤独の中で執筆作業をしたはずだ。彼らが有名だったかどうか、彼らが金持ちだったかどうかは関係ない。ディケンズも僕も同じだ。文章を書いている間は、誰であれ同じことをしている。そこには書き手と紙とペンしか存在しない。読者も同じだ。読書をしている間は、時代や国も超えて、貧富の差も超えて、本と読者だけが存在している。

 誰かが本を書き、誰かが本を読む。もちろん、両者の間には多くの人間が関与する。編集者や出版社がいて、取次や書店がいる。でも、その始まりと終わりは究極的に孤独で、究極的に公平だった。だからこそ、僕は本を読んでいた。孤独で構わない。そういう人間がこの世界にいることを、誰にも知られなくても構わないと思っていた。そうやって、いろんな物語を内側に溜めこんできた。

 僕はクリプキのことを思い出す。固有名には、記述の束では回収できない剰余が存在するらしい。本とはつまり、記述の束だ。豊かな世界を、言葉に閉じこめる作業だ。「よく晴れた春の朝にカーテンを開けたときの陽光」という文章は、よく晴れた春の朝にカーテンを開けたときの、本物の陽光ではない。どれだけ努力しても、本物の陽光には敵わない。

 クリプキの主張を置き換えてみる。本物の世界には、小説では回収できない剰余が存在する。でも、と僕は反論したくなる。小説には、本物の世界では味わうことのできない奇跡が存在する。いつもその奇跡に出会うとは言えないが、特別な本に出会ったときは、言語で説明できないたぐいの感動をおぼえる。百パーセント言語によって構成された本という物体が、どうして言語を超えることがあるのだろうか――少なくとも、言語を超えたような錯覚を得ることができるのは、どうしてだろうか。

 その秘密はきっと、読書という行為の孤独さの中にある。

 僕はエントリーシートを机の上に置いたまま立ちあがった。

 ソファに美梨はいない。本当なら今日も一緒に食事をするはずだったが、仕事で会社から出られなくなったらしい。僕は「あなたの人生を円グラフで表現してください」という文章を見つめる。

 僕の人生には、円グラフで表現することのできない剰余がある。僕はエントリーシートの空白に向かって、そう反論する。

 

 僕たちは岩本町にあるイタリアンレストランにいる。この前ドタキャンしたときの埋め合わせのつもりらしく、珍しく美梨が予約をした。注文した料理が来るまでの間、美梨はウーロン茶を飲みながら僕が書きかけたエントリーシートを読んでいた。

「悪くない。でも、ちょっと弱い」と彼女は言った。「小川くんの文章の弱点、教えてあげようか?」

「何?」と赤ワインを飲みながら僕は聞いた。

「文章がかならず『たぶん』や『もしかしたら』で始まって、『と思う』や『かもしれない』で終わるところ」

「たしかにそうかもしれない」

「出た。『かもしれない』」

「あ」と僕は声を出す。自分でも意識したことはなかったけれど、きっとそうなのだろう。

「断言恐怖症だね」と美梨が言う。

「先生、どうやったら治りますか?」と僕は聞く。

「十分な睡眠と、規則正しい生活、最低限の運動、バランスの取れた食事――では治らないですね」

「じゃあ、どうすればいいんですか? 治療する方法はないんですか?」

「あなたは、どうして自分が断言恐怖症にかかってしまったと思いますか?」

「季節の変わり目に、お腹を出したまま寝てしまったからですか?」

「違います」と美梨が首を振る。「真実を話そうとしすぎなのです」

「真実を話すことは悪いことですか?」

「悪いことではありませんが、就職はできません」

「どうやったら就職できますか?」

「小川さんの趣味を活かせばいいのではないでしょうか」

「趣味、ですか?」

「小説です。これまでたくさん読んできたでしょう。エントリーシートに小説を書けばいいのです。就職活動はフィクションです。あなたはフィクションの登場人物です。話が面白ければ、別に嘘でもいいのです。真実を書こうとする必要はありません」

「中川先生、たいへん勉強になります」

「それでは練習をしてみましょう」

「練習?」

「何か嘘を言ってみてください」

「ミッキーマウスはネズミ年に生まれた」

 僕はそう口にする。

「それは本当に嘘ですか?」と美梨が聞く。

「調べたことはありませんが、十二分の十一の確率で嘘です」と僕は言う。

「その調子」と美梨が言う。

<第5回に続く>

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