「何があっても、電話口で怒鳴る人間と、猫舌の人間は信用してはいけない」/君が手にするはずだった黄金について③

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/20

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第3回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。


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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 それから美梨とは、一ヶ月に一度くらい会って食事をした。美梨に頼まれ、船橋の彼女の実家まで、良治よしはるくんという弟に勉強を教えにいったこともあった。良治くんは東大受験を控えていた。美梨のお母さんは関西弁の明るい人で、いつも晩御飯をご馳走してくれた。

「良治はどうなん? 見込みある? 遠慮しないで言って」

 食事が終わったあと、美梨のお母さんにそう聞かれたとき、僕は「浪人すれば、確実に受かります」と答えた。「現役だと、私大は大丈夫ですが、東大は難しいかもしれません」

「やんなあ。私もそう思ってたわ。よりによって高三の夏に彼女作りよって。美梨と同じなんよ」

「でもまあ、長い目で見れば、人生において恋愛の方が大学受験より重要ですよ」

「小川くん、いいこと言うなあ」

 冬が過ぎ、年が明け、春が来た。良治くんは東大に落ち、早稲田に進学した。美梨と同じだった。美梨はオダギリジョー似の男と付き合い、うまくいかずに三ヶ月で別れた。美梨の誕生日プレゼントとして、僕はライブチケットをあげた。NHKホールでくるりのライブを観てから、渋谷で食事をした。

 その日をきっかけに、僕たちは月に二回くらい会うようになった。僕の誕生日も一緒に過ごした。表参道のいつもより少し高いレストランで、美梨は谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の初版本をプレゼントしてくれた。僕は嬉しかったが、それ以上に「どうやってこのプレゼントを選んだのだろう」と気になった。それほど本に詳しくない人が選ぶにしては、渋すぎるチョイスだった。

 美梨はなかなか教えてくれなかったけれど、執拗に粘ると最終的に白状した。

「前に、読書好きの先輩の話をしたよね?」と彼女が言った。

「うん。サークルの先輩でしょ。当時片想いしていた」

「そう。その人に選んでもらったの。『谷崎の初版本を渡されて喜ばない人とは付き合う価値がないよ』って言われた」

 僕はどう応えるべきか少し迷ってから、「それはそうかもしれない」とうなずいた。

 今にして思えば、その言葉が「告白」にあたるものだったのかもしれない。帰り道、初めて入った表参道ヒルズの中で、大学の友人と会った。友人は美梨を指さして「彼女?」と聞いてきた。僕は少し迷いながら「うん」と答えた。美梨は何も反論しなかった。

 

 翌年、美梨は就職活動を本格的に始めた。大学院に進学する予定だった僕は、卒業論文の準備をしたり、好きな本を読んだりして過ごした。美梨は二つのメーカーとテレビ局と伊藤忠から内定をもらい、もっとも給料の高かった伊藤忠を選んだ。春からは社会人になって、森下で一人暮らしを始めた。彼女の実家と会社と僕の家を線で結んだとき、三角形のちょうど中心にあたる場所だったらしい。

 休日にはよく二人で旅行をした。僕はいつも本を二冊持っていった。そのうちの一冊を美梨が選び、残った方を僕が読んだ。行きの電車や飛行機で読書をして、読み終わると交換した。年に何度か、彼女の実家へ一緒に行くこともあった。彼女のお父さんに有楽町へ呼びだされ、二人で酒を飲んだこともあった。

「君は、何かやりたいことがあるのか?」

 かなり酒を飲んでから、美梨のお父さんはそう聞いてきた。美梨のお父さんは銀行員で、新卒からずっと同じ会社に勤め続けているらしい。僕はどう答えるべきか真剣に考えてみたけれど、しっくりくる答えを見つけることができなかった。

 困ったときは正直に答えるべきである――これも誰かの箴言ではない。自分で考えたことだ。僕は正直に「あまり思いつきません」と答えた。

「じゃあ、やりたくないことはあるか?」

「それならたくさんあります」

「たとえば?」

 通勤のために満員電車に乗るのは嫌だったし、無能な人間に偉そうな態度をとられるのも嫌だった。目覚ましで起きるのも嫌だったし、眠たいまま一日を過ごすのも嫌だった。お金のために嘘をつくのも嫌だったし、誰かに気に入られるために持論を曲げるのも嫌だった。でも、それらの言葉を口に出すと、美梨のお父さんの人生を傷つけるかもしれないとも思った。目の前の相手は、僕がやりたくないことをやってお金を稼ぎ、二人の子どもを私立大学に通わせたのかもしれない。

「満員電車に乗りたくないです」

 僕は慎重にそう答えた。僕は困っていたが、正直に答えるしかないと腹をくくった。

「満員電車は最低だね」と美梨のお父さんは言った。「俺も大嫌いだ。他には?」

「無能な人間に偉そうな態度をとられるのも嫌です」

 それを聞くと、美梨のお父さんは声を出して笑った。「それもそうだ。俺も自分が偉そうな態度をとってないか、気をつけないといけないね」

 話の最後に、美梨のお父さんは「何があっても、電話口で怒鳴る人間と、猫舌の人間は信用してはいけない」と言った。

「なるほど」と僕はうなずいた。

 こうして僕は就職について考えはじめた。

 

「あなたの人生を円グラフで表現してください」という質問は、おそらくその問いが設定された事情を超えて、僕にさまざまな問題を投げかけてきた。この問いに答えようと、僕は自分の人生を思い返した。一人で更新し続けた読書リストのことや、読書リストを見て僕に連絡した美梨のこと。

 読書とは本質的に、とても孤独な作業だ。映画や演劇みたいに、誰かと同時に楽しむことはできない。最初から最後まで、たった一人で経験する。それに加えて、本は読者にかなりの能動性を要求する。目の前で何か行われていることを受けとればいい、というわけではない。読者は自分の意志で本に向きあい、自分の力で言葉を手に入れなければいけない。そんな拷問を、場合によっては数時間、十数時間も要求する。僕はときどき、本というものが、わがままな子どもや、面倒臭い恋人のように見える。

「僕だけを見て。私だけにずっと構って」

 本が、そうわめいているように感じられるのだ。実に傲慢だと思う。

 しかしその傲慢さのおかげで、僕たちは一冊の本と深い部分で接続することができる。誰かによって書かれたテキストと、たった一人の孤独な読者。二人きりの時間をたっぷり過ごしたからこそ、可能になる繋がりだ。

 僕は今、就職活動をしている。他人に伝わる言葉で、可能な限り僕という人間を表現しなければならない。しかし、読書という行為の本質的な孤独さと、読書が僕たちに求める傲慢さのせいで、適切な言葉が出てこない。適切な円グラフを描くことができない。

 エントリーシートのために、僕は僕という人間を記述しようとする。元サッカー部員で、読書が好き。しかしそれではまだ足りない。まだ、僕という人間を表現しきれていない。千葉県千葉市出身で、『H2』を二十回くらい読んでいて、映画『グッドフェローズ』を四回観ている。それでもまだ足りない。ラッセルの記述理論によれば、そうやって僕の特徴を挙げ続けると、いつかは僕という人間の固有名と同義になるという。それに対してクリプキは、どれだけ記述を続けても、固有名と同義にはならないと主張した。

 クリプキは「名前」を「固定指示子」と呼んだ。「固定指示子」とは、あらゆる可能世界において、その「名前」が不変なものであると固定する機能を持ったものだ。僕が『H2』を読んでいなくても、僕は僕のままだ。僕という固有名は形而上学的に同一だ、とクリプキは指摘する。

「出た、形而上学」と美梨が言う。

 僕たちは城崎温泉へ向かう特急の車内にいる。美梨が忙しくなったこともあり、旅行の回数はずいぶん減った。今回の旅行は久しぶりだった。

「形而上学の話題を出したのは僕じゃなくて、クリプキだよ」

「私は哲学に詳しいわけでもないけど、クリプキさんの言ってることは正しいと思う」

「どういう点において?」

「固有名には、記述で回収できない何かがあるっていう点。私という人間を、なんらかの記述で完全に説明できるとは思えない」

「つまり、対象の性質によって名前が決まるわけではなく、名付けそのものが名前の本質だという立場だね」

「自分がその立場に属するのかはわかんないけど」

「名前の本質を担保しているのは、名前が付けられてからその名前を共有してきた社会の因果的連鎖ということになる。言い換えると、言語や知識は個人の頭の中にはなく、共同体によって決定されるということだ」

「ねえ、哲学者ってなんでそんなに極端なの?」

「突き詰めて考える必要があるからだよ。クリプキの名指しに関する議論には、さまざまな批判があった。言語が本質的に外在的であるという主張も、いろいろな哲学者からかなり攻撃された」

「よくわかんないけど、簡単じゃないんだね」

「そう。簡単じゃない。直観的に正しそうなことを言うと、突き詰めて考えたときに矛盾が発生する。哲学者は何千年もそんなことを繰り返している」

 僕は旅行鞄から二冊の本を出した。ケリー・リンクの『マジック・フォー・ビギナーズ』と、志賀直哉の『小僧の神様・城の崎にて』だ。

 美梨は本を選ぶ前に「もう少し寝る」と言った。まだ仕事の疲れがとれていないようだった。結局、美梨は城崎温泉に到着するまでずっと寝ていたし、帰りの電車でもずっと寝ていた。僕は一人で二冊とも読んだ。

<第4回に続く>

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