僕は世界一甘やかされた男!? 彼女の決断と僕の決断がもたらしたものとは/君が手にするはずだった黄金について⑥

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/23

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第6回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。

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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 美梨と僕は、伊香保温泉にいる。

 岩本町のイタリアンレストランで食事をしてから、かなり経っていた。

 付き合いはじめて以来、こんなに会わなかったのはおそらく初めてだろう。彼女の仕事が忙しかったというのもあるが、基本的には僕のせいだった。

 その間僕はずっと小説を書いていた。小説を書きはじめてから、どういうわけか美梨と会う気にならなくなっていた。もしかしたら、僕にとって小説を書くことと、美梨と会うことは、人生において同じ部分に存在しているのかもしれない。そんなことを考えた。だからこそ、うまく両立することができなかったのだ。

 この旅行には、美梨の誕生日祝いという側面もあった。誕生日当日は、彼女の仕事のせいで一緒に過ごすことができなかった。旅館で食事をとり、すでに過ぎてしまった彼女の誕生日を祝った。美梨が以前から欲しがっていたボッテガ・ヴェネタの財布をプレゼントした。美梨は珍しく酒を飲んだ。ビールをグラス一杯飲んだだけで、新鮮な挽肉のように顔が真っ赤になっていた。

「一杯だけ飲めるようになったの」と彼女は言った。「ここ最近、飲み会ばっかで」

「無理しなくていいよ」

「一杯だけなら大丈夫。これ以上は飲まないけど」

 僕と美梨は、完成することのないエントリーシートの話をした。美梨のアドバイスに従って、フィクションを書こうとしたんだ――僕はそう説明した。でも、僕という人間は、どうやらエントリーシートという物語の主人公に相応ふさわしくないみたいで。

「どうして?」と美梨が聞く。

「簡潔に言えば、動機がないんだ」と僕は答える。「僕は自分でも、自分がどうして就職しようとしているのか、満足に説明できない」

「それってたぶん――」

 美梨は何かを言いかけて、「――やっぱなんでもない」と途中でやめる。

 なんだよ、教えてよ、と言いかけて、美梨と目が合う。

 目が合った瞬間、奇跡のような何かが降り注ぎ、僕は唐突に答えにたどり着く。そうか、君か、と僕は思う。そう、私だよ、と美梨も思っているに違いない。僕は目を伏せて、自分のグラスにビールを注ぐ。

 僕は無意識のうちに、一人前の人間になろうとしている。もっと具体的に言うと、美梨と結婚するためには、きちんと就職しなければならないと思っている。だから僕は、就職しようとしている。

 僕は不意に、泣きそうになってしまう。どうして泣きそうになったのか、自分でもまだよくわかっていない。

 顔をあげると、美梨が泣いている。ビールのせいで顔が赤く、号泣しているように見えるけれど、たぶんそうではない。静かに、しっとりと泣いている。

「前に、小川くんが私のお父さんと二人で飲みにいったことがあるでしょ?」

 美梨がはなをすすりながら言った。

「有楽町で」

「そう。あのあとお父さんと会ったとき、なんて言われたと思う?」

「想像もつかないな」

「『俺は美梨のことを世界一甘やかして育ててきたつもりだったが、世界二位だった』って。『もっと甘やかされて育ったやつがいた』って」

「それは褒め言葉なのかな」

「わかんない。たぶん褒めても、けなしてもないと思う。どうしてだろう、そのことを思い出して、涙が止まらなくなって。別にお父さんが死んだわけでもないのに。今も毎朝元気に出勤してるのに」

 僕の喉で、言葉が詰まっている。その言葉は、必死に外の世界へ出たがっていた。でも僕は、本能的に「出てはいけない」と命じている。一度外に飛びだせば、もう二度と同じ場所に戻ってくることができないような気がしていた。

「最近ずっと会えなかったじゃん?」と美梨が言う。僕は「うん」とうなずく。

「その間に、いろいろ考えたの。昔のこととか、将来のこととか」

「うん」と僕は繰り返す。

「完成しないエントリーシートのことも、少し考えた」

「何か妙案は浮かんだ?」

「浮かばなかった」と美梨は答えた。「いや、正確には違うかな。あの質問に、小川くんは答えるべきじゃないと思った。無理に埋める必要はないって」

「どっちにしろ、もうとっくに締め切りが過ぎちゃったけどね」

「知ってる」と美梨がうなずく。無理に笑おうとしているみたいに、ぎこちない表情をこちらに向ける。

「僕も――」と言いかけて、喉に詰まっていた言葉が飛びだすような感覚に陥る。「――僕もここ最近、いろんなことを考えた」

「どんなこと?」

「小説のこと」

「エントリーシートというフィクションのこと?」

「いや、そうじゃない」と僕は首を振る。「エントリーシートはすでに締め切られているし、何より僕という人間は小説に相応しくない。僕の人生には、心の躍る物語がないんだ」

「じゃあ、そうではない小説について考えていたの?」

「うん。初めは、僕という人間の記述を書き換えていった。クリプキ的に言えば、可能世界の僕について考えたんだ。でもそれじゃ物足りなくなって、僕は自分の名前を捨てた。まったく新しい人格を作りだして、その人格が世界と衝突する物語を考えた」

「なんとなく、そうじゃないかって気がしていた」

 美梨の頬を伝った涙が、顎の先から机の上に落ちた。

「それで――」と言いかけた僕を、美梨が「――私に言わせて」と制した。

「うん」とうなずきながら、僕は自分がこれから何を言おうとしていたのか、自分でもよくわかっていなかったことに気づいた。

「私と一緒にいると、小説に集中できないんでしょ? 前にも同じようなことを言われたことがあるから、よくわかるの」

「野球部の四番に」

「そう」

 それから、僕はなんと口にするべきか、必死になって言葉を探した。世界中を探しまわっても、何も見つからなかった。

「ごめん」と僕は口にした。「そうかもしれない」

 

 翌日、僕たちは予定通りいくつかの温泉を回り、水沢うどんを食べてからレンタカーで東京へ帰った。多少のぎこちなさはあったけれど、悲愴感のようなものは出さないように気をつけていた。車中で何を話したかは、まったく覚えていない。ボーズ・オブ・カナダの同じアルバムが無限に繰り返されていた。高速を降りてから「家まで送ろうか」と僕は提案したけれど、美梨は「大丈夫」と言った。僕たちは新宿のレンタカー屋で解散した。最後に交わした言葉は「じゃあ」だった。

 自宅に帰り、旅行鞄の中身を整理しながら、僕は一文字も読むことのなかったバルガス=リョサの『緑の家』と伊藤計劃けいかくの『ハーモニー』を手にとった。それでもやっぱり読むことができなくて、部屋にあった美梨の荷物を集めていった。いつかまとめて送ろうと思いながら、いつまでもできなかった。

 

 こうして僕は小説を書いた。エントリーシートのときとは大きく違っていた。何もかも自分のせいだったけれど、少なくとも僕には欠損があり、その欠損を埋めるための動機があった。僕は小説を書かざるを得なかった。

 新宿のレンタカー屋で解散してから六年後に、高校の同級生から「美梨が結婚した」という話を聞いた。相手はオダギリジョー似の男でも、サークルの先輩でもなく、会社の同期らしい。僕はすでに小説家としてデビューしていた。お祝いの言葉を贈ろうか一時間くらい悩んで、結局何も贈らなかった。

 部屋は以前よりも散らかっていた。毎日のように文豪の数が増えていたからだった。カズオ・イシグロが暴れまわり、チェーホフとカーヴァーが机の上からその様子を見守っている。

 今でもときどき、僕は可能世界の自分について考える。無数の可能世界のどこかには、人生を円グラフで表現することに成功して、エントリーシートを提出した自分もいるだろう。

 一度、新潮社の編集者に「新潮社を受けようとしたことがあったんです」と言ったことがある。編集者は「僕も昔、小説を書こうとしたことがありました」と答えた。

 僕はエントリーシートを書くことに失敗して、小説家になった。編集者は小説を書くことに失敗して、新潮社に入社した。もしかしたら、僕たちが逆の立場になっていた可能世界も存在するのかもしれない。

 しかし、それでも僕は僕だし、編集者は編集者なのだ。クリプキによれば、僕たちの名前には、記述では回収しきれない剰余がある。その剰余とは、さまざまな可能性を繋ぎとめるくさびのことだ。僕たちは手に入れることのできなかった無数の可能世界に想いを巡らせながら、日々局所的に進歩し、大局的に退化して生きている。きっと、そうすることでしか生きていけないのだと思う。

<続きは本書でお楽しみください>

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