「なぜ宿題をしてきたの?」と尋ねる塾講師。自分の行動の動機を探ると見えるもの/君が手にするはずだった黄金について⑤

文芸・カルチャー

公開日:2023/10/22

君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)第5回【全6回】

地図と拳』で直木賞を受賞し、『君のクイズ』で本屋大賞にノミネートされた小川哲氏が、自らを主人公に据えて、人々の成功と承認、嘘と真実に迫る小説『君が手にするはずだった黄金について』を書き上げた。本書は、就活の一問「あなたの人生を円グラフで表現しなさい」に苦悩するシーンから始まる。そこで真実を語る必要がないことを恋人に教えられ、嘘=フィクションを書く小説家を目指すようになり、最終的にある権威ある文学賞の最終選考に残るまでを描いた話だ。今回は、就活の苦悩から小説家になるまでの第一章『プロローグ』をお楽しみいただきたい。

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君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』(小川哲/新潮社)

 僕は生まれて初めて、小説を書こうと試みる。主人公は就活を控えた大学院生だ。新代田と代田橋の中間にある月七万円のワンルームマンションに住んでいて、アルバイトと奨学金で生活している。両親はどちらも健在で、金持ちではないけれど貧乏でもない。付き合って三年の、商社に勤める彼女がいる。本を読むのが好きだという理由で、出版社を受けようとしている。

 小説の主人公にするには面白みに欠ける人間だ、と僕は思う。葛藤がないし、わかりやすい屈折もない。これでは読者の共感が得られない。

 この主人公の最終的な目標は、就職することにある。物語を成立させるためには、主人公には何かが欠けていて、就職することが必然的にその欠損を満たさなければいけない。しかし、この主人公は「就職する」という動機に欠けている。貧しい実家を支える必要もないし、多額の借金を返さなければならないわけでもない。偉くなって誰かを見返したいと願っているわけでもないし、実存的な不能感に晒されているわけでもない。

 本が好きだから、出版社を受けようと思いました――オーケー、それはわかった。でも君は、そもそもどうして就職しようと思ったんだ? 本が好きなら、ただ本を読めばいいだろう。君がどうして就職したいと考えているのか、その理由はなんなのか、しっかり説明してくれよ。そうでないと、物語が生まれないじゃないか。

 そもそも僕はどうして就職をしようとしているのだろうか。僕は自分に問いかける。

 金のためだろうか。もちろん生きていく上で金は必要だ。だが、就職は金を稼ぐことの十分条件ではあるけれど、必要条件ではない。別に企業に就職をしなくても、金を稼ぐことならできる。事実として、僕は週四回の塾講師のバイトで、大卒の初任給と同程度の金を稼いでいる。

 親のためだろうか。もちろん僕が就職すれば親は喜ぶだろう。親が喜べば、もちろん僕も嬉しい。でも別に、僕は親を喜ばせるために生きているわけではない。

 なんのためなんだろう、と僕は腕を組む。エントリーシートに小説を書くため、僕は真剣に考える。

 

 翌日、僕はスーツを着てホワイトボードの前に立っている。二十一人の生徒が、僕の授業を聞くためにこちらを見ている。僕は授業の冒頭で、先週出した仮定法過去に関する宿題を集める。それぞれの列ごとに宿題のプリントが重ねられていく。僕はそれらを集めて枚数を確認する。二十一枚ある。つまり、生徒全員が宿題を提出したということだ。

「今、僕の気持ちを率直に述べていいですか?」と僕は生徒たちに問いかける。何人かの生徒がうなずき、残りの生徒は少し戸惑っている。

「驚いています」と僕は口にする。教室内に、少しだけ重い空気が漂う。生徒たちが、今からなんらかの理由で怒られるのではないか、と警戒しているからだろう。普段、僕は授業に関係のない話をあまりしない。

「なんと、二十一人全員が宿題を提出しました。これは驚くべきことです」

 だって僕は自分が学生のころ、記憶の限り、一度も宿題を提出したことがないからです――そう続けそうになって我慢した。塾講師として、適切な言葉ではない。

早乙女さおとめくん、どうして宿題をやろうと思いましたか?」

 僕は最前列に座っていた男の子に聞く。サッカー部のフォワードで、父親が不動産会社の役員をしている生徒だった。

「先生から宿題が出されたからです」と早乙女くんが答える。

「たしかに僕は宿題を出しました。でも、宿題をやらないという選択肢もあったはずです」

「宿題はやるべきだと思います」

 そう言ってから、早乙女くんは困惑した表情を浮かべている。僕に責められていると感じているのだろうか。さすがに、宿題をやってきた生徒に対し、「宿題をやった動機に問題がある」などと怒るわけにもいかない。

「いい心がけだと思います」と僕は口にする。「では、真中まなかさんはどうして宿題をやってきたのですか?」

 別の生徒に話を振る。早乙女くんが安堵したような表情を浮かべている様子が視界の端に映る。真中さんは近所の女子高に通っている女の子で、小学校までは北海道に住んでいた。

「志望校に合格するためです」と真中さんが答える。まっすぐこちらを見ている。

「志望校に合格するのは、誰のためですか?」

 僕は少し意地悪な質問をする。真中さんは少し考えてから「自分のためです」と答える。

「いい心がけだと思います」と言って、僕は授業を始める。生徒たちは、しばらく唖然としている。

 

 宿題とは、自分のためにやるものである――真中さんの言葉だ。

 僕はその言葉を置き換える。就活とは、自分のためにやるものである。

 僕はラップトップを開き、自分という人間の記述を可能な限り列挙していった。ひとつひとつの記述を検討し、就職の動機となる根拠を探した。なかなか見つからなかったので、僕は記述自体に手を加えることにした。元サッカー部という設定を、元文芸部という設定に変えてみた。それだけで、物語が広がったような感覚があった。元文芸部の僕は、学生時代に同人誌を出版したことがあった。一から企画を考えた。締め切りを守ろうとしない部員に発破をかけ、徹夜で校正作業をした。印刷所とやりとりをして、なんとか文化祭の当日に間に合わせた。当日売り切ることができなかった同人誌の在庫を解消するために、さまざまなPR戦略を立てた。結局、そのときの戦略はうまくいかず、今でも家には同人誌の在庫が残っている。僕が出版社を受けるのは、この経験が元になっている。いろんな人と関わりながら、本という一つの作品を作り、多くの読者に届ける。その喜びを、もっと深い部分で感じたい。

 月並みな話かもしれないが、筋は通っている。主人公には明確な動機があって、それを満たしたいと思っている。彼のような人間こそ、出版社に就職するべきだろう。

 そこで僕は気がつく。この世界の僕には就職する動機がないかもしれないが、可能世界の僕には動機がある。可能世界の僕の動機を集めていけば、何か答えが見えるのではないか。

 僕は自分の出身地を変えてみる。家庭環境を変え、年齢を変えてみる。趣味を変え、大学に通っていなかったことにする。性別を変えようと思ったところで、同時に名前も変える必要があることに気づく。

 名前とは固定指示子だ、と言ったクリプキを思い出す。可能世界に散らばったさまざまな僕の可能性を束ねるものだ。僕は心の中でクリプキに許可を得て、自分の名前を捨てる。僕はアメリカ人女性のジェシカ・バートンという人物のことを考えている。ジェシカは結婚して夫もいるが、自分の平凡な生活に退屈しきっている。彼女は何かが起きて、世界が突然大きく変わることを心のどこかで祈っている。

 僕はジェシカの人生について文章を書く。彼女がどこで生まれ、何が重要だと思って生きてきたか。何を信じ、何に裏切られたか。

 その瞬間、僕は他の誰でもなく、自分のために文章を書いている。

 真中さんの言葉を置き換える。文章とは、自分のために書くものである。

<第6回に続く>

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