便利なキッチン用品との出会いが人生を変えた! 北海道での一人暮らしが始まる/株式会社シェフ工房 企画開発室①

文芸・カルチャー

公開日:2023/9/26

株式会社シェフ工房 企画開発室』(森崎緩/KADOKAWA)第1回【全4回】

札幌にあるキッチン用品メーカー「シェフ工房」のアイディアグッズに魅了された新津七雪。憧れの「シェフ工房」に入社し製品への熱意が買われて企画開発室に配属される。個性豊かなメンバーに囲まれながら、新津は次のヒット商品を生み出すべく北海道での新生活をスタートする。『株式会社シェフ工房 企画開発室』は、『総務課の播上君のお弁当』シリーズで話題になった森崎緩氏の書き下ろし作品。魅力的な料理のレシピも満載! キッチン用品との出会いで人生を変えた主人公の成長物語をお届けします!

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株式会社シェフ工房 企画開発室
『株式会社シェフ工房 企画開発室』(森崎緩/KADOKAWA)

かしわもちトングでジンギスカン

株式会社シェフ工房 企画開発室
イラスト/晴菜

 この春、私は自分だけのキッチンを手に入れた。

 一人暮らしの利点の一つは、忙しい朝にキッチンを独占してもいいことだ。これが実家ならそうはいかない。父も母も仕事があるし、朝はあまり食べないけどお弁当を持っていきたい父と、朝からご飯と味噌汁を食べないと調子が出ないという母が、キッチンでいつもばたばたしていた。順番待ちをする私が空腹のあまり焼く前の食パンをかじったり、リンゴを剝かずにそのまま食べたりすることもしばしばだった。もちろんそれでも美味しいけど。

 今は私専用のキッチンがあり、朝からフレンチトーストを焼こうがお蕎麦を茹でようが、お好み焼きを作ろうが自由だ。春先の札幌はまだ寒く、今朝はスープパスタを作るつもりだった。

 ピーラーでジャガイモとニンジンの皮を剝き、ざく切りにして先にレンジで加熱する。玉ネギは皮を剝いでくし切り、レタスは細切りにしてから水洗いし、サラダスピナーで水気を吹き飛ばしておく。計量カップとメジャースプーンを駆使して白だしスープを作り、フライパンに注いで火をつけたら、野菜を全て投入してふつふついうまで煮る。煮立ってきたら味を見て塩コショウで整え、半分に折ったパスタを投入してしばらく茹でる。あとはパスタが食べごろの硬さになったら火を止める。スープを少なめにして煮詰めてしまっても美味しいし、スープと一緒に食べても美味しい、楽ちん和風スープパスタの完成だ。

 柄の短いトングでパスタを皿に盛り、上からスープを具ごと注ぐと、まるで一流シェフの気分になれる。このトングは最近のお気に入りで、柄が短い分握力が要らず、まるで自分の指先のように扱うことができた。パスタをねじりながら円く盛りつけるのも簡単にできる。もちろん調理器具としても優秀で、ナポリタンなどの炒めるパスタにも便利だし、私はフレンチトーストやお好み焼きを返す時も、ちょっといいお肉を焼くときも、そしてお蕎麦を茹でる時にもこれを使っていた。

「いただきまーす」

 パスタはアルデンテが好きだ。わずかに芯を感じる硬めの麺に、白だしスープの味が染み込んでいるのが美味しい。ジャガイモやニンジンはほくほくしているし、透き通った玉ネギは口の中で溶けるほど柔らかい。しっとり煮えたレタスはそれでも瑞々しく、ほんのり春を感じる風味だった。スープから立ちのぼる熱々の湯気ごと味わうと、寒さに震える身体が奥から温まっていくようだ。

「はあ……」

 一人暮らし歴まだ一ヶ月の四月の朝だった。今日もご飯を食べたら着替えてメイクして、地下鉄で職場まで向かう。新入社員っぽいメイクにも大分慣れてきたし、地図アプリも使いこなせるようになってきた。地下鉄南北線とは最早顔なじみみたいなものだ。職場と自宅の往復しかしてないけど。

『お料理が得意じゃなくても大丈夫! あなたも今日からシェフになろう!』

 ふと、点けっぱなしのテレビから聴き覚えのあるCMソングが流れてきた。

 パスタを啜っていた私は顔を上げ、テレビ画面に釘づけになる。

「シェフ工房のタヌールくん……」

 自然と呟きながら、ああ、北海道に来たんだとしみじみ思った。北海道でしか流れないローカルCMを、こうしてテレビで観ることができる。

 テレビ画面の中では着ぐるみ姿のタヌールくんがフライパンを振っていた。彼は丸い耳の間にコック帽をかぶり、ふかふかの茶色い毛皮の上にコックコートを着こなす二足歩行のエゾタヌキだ。タヌールくんはふわふわ踊りながら画面越しに歌いかけてくる。

『シェフ工房があなたの料理をお手伝い。さあキッチンへ飛び込もう!』

 動画サイトでは何度も見て、テーマソングを口ずさめるほどになったこのCMを、初めてテレビで観ることができた。私は声を上げたくなるのを堪えて、満足感に胸を押さえる。この部屋はマンションの六階にあるので、大声を出すと隣室や階下に迷惑が掛かるのだ。始めたての新生活を騒音トラブルで終わらせるわけにはいかない。

 

 この春からの私の新居は、札幌市に流れる豊平川の橋の一つ、幌平橋のすぐ傍にある。

 地図で言うと豊平川の東側、マンション六階の西向きの部屋で、窓を開けると白いアーチ型の美しい橋が見えた。春の陽射しにきらきら光る水面と、舗装されて歩きやすそうな河川敷も窺える。空気はまだ冷たく澄んでいて、胸一杯に吸い込んでもスギ花粉の心配がないのがいい。これも北海道に来たなと思う瞬間だ。

 大学は実家から通っていたから、一人暮らしは初めてだった。しかも故郷の長野を離れ、海を渡った札幌へ単身やってきたのだから、我ながらなかなかの行動力だと思う。こちらに就職が決まった当初は両親も気を揉んでいて、女の子が一人でなんて大丈夫なのか、ちゃんとやっていけるのかとしきりに心配されていた。だけど私の意志が固いことを知り、はらはらしながらも送り出してくれたことには感謝している。

「七雪は昔から言い出したら聞かない子だったから」

「辛くなったらいつでも戻ってきなさいね」

 両親から貰った言葉は温かかったけど、戻るつもりはなかった。そんな軟弱な気持ちだったら初めから北海道まで来ていない。私はこの新天地で、ずっとやりたかった仕事をする。

 新居は1LDKで、その広さはまだ持て余し気味だ。実家から持ってきたローテーブルはあるものの、リビングはそれとテレビボードしかないし、寝室にはシングルベッドとパソコンデスクが置いてあるだけだった。収納が多い部屋だから服も本もクローゼットにしまえていて、すっきりしている半面ちょっと物足りないなと思う。殺風景すぎるからコルクボードを壁に掛けて、スキー部時代の写真やら寄せ書きやら、使い古したスキーグローブやらを飾っていた。大学時代の思い出が詰まったそれらは、まだ微かに故郷の香りがする。

 私の一人暮らしの部屋の中で、最も充実しているのはキッチンだった。鍋だけでも二十六センチのフライパン、四角くて茹で調理もできる深めの卵焼き器、大きめの鋳物鍋などが揃っている。今は圧力鍋が気になっているけど、一人暮らしだから買うかどうか迷うところだった。

 キッチン雑貨もたくさん持っていて、例えばピーラーは怪我を防げるトング式だし、ザルにセットして使えるサラダスピナーもある。お玉は計量もできる目盛り付きで、メジャースプーンは底が平たく置いても使えるタイプで、ボウルは持ち手と注ぎ口がついた使いやすい仕様で――見ての通り、普通のものよりちょっと便利なグッズばかりだ。

 これらキッチン雑貨は全て同じメーカーの品を購入している。その証拠に、全てに同じロゴが入っていて、ロゴの横にはタヌールくんの顔も描かれていた。

 株式会社シェフ工房。

 北海道札幌市にある会社で、主にキッチン用品の開発、製造、販売を行っている。

『誰でもシェフの腕前に』をコンセプトに、調理が楽になる便利なグッズをたくさん売り出しているのが特徴だった。近年はネット通販などでじわじわと販路を広げ、一部の調理器具がメディアに取り上げられたり、SNSで話題になったりするなど着実にファンを増やしている会社だ。

 シェフ工房の商品はシリコン製やプラスチック製が多く、軽くて安価なのも売りだった。一方で鋳物メーカーの品と比べると耐久性やデザイン性ではやや劣るものの、アルバイトができなかった学生時代の私にとっては強い味方となっていた。

 要は私もファンの一人であり、安価で販売されるキッチン雑貨には現在進行形で大変お世話になっている。高校生まではぬくぬくと母の手料理を楽しむ毎日で、自炊なんてレトルトカレーとパックご飯が関の山だった私が、シェフ工房との出会いで変わった。手を怪我する心配のないピーラーはあらゆる野菜の皮むきを革命的に楽にしてくれたし、ザルにセットできる後付けサラダスピナーは生野菜を一層美味しくしてくれた。計量お玉やメジャースプーン、ボウルなどで調味料の計量の大切さを学んだ後は、めきめきと作れる料理のレパートリーが増えた。今では自炊はもちろん、他人様に手料理を振る舞えるまでの腕前になれている。

 そんな出会いを経たのだから、私がシェフ工房に惚れ込むのも自然の道理というものだ。周囲が彼氏やアイドルやスポーツ選手に夢中になっている間、私はひたすらシェフ工房に熱い想いを抱いていた。料理をする時には必ず傍にいてもらったし、壊れたら何を差し置いてもすぐ買い替えたし、友人には惚気みたいなお勧めエピソードも聞かせまくった。料理を始めたいと相談され、自腹で買ってプレゼントしたこともある。

「新津はシェフ工房からマージンを貰っているに違いない」

 とは、大学の親しい友人や先輩が私をからかう時の定番の台詞だ。だけど当然のことながら、シェフ工房からは一銭も貰っていない――少なくとも今まではそうだった。

<第2回に続く>

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