日本一書き出しが有名な小説・川端康成『雪国』。実は倫理的に問題のある物語…!?/斉藤紳士のガチ文学レビュー④

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/6

雪国
雪国』(川端康成/KADOKAWA)

 日本一有名な小説の書き出しとは? というアンケートをとれば文句なく一位を獲るのはこの名文だろう。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

雪国」は日本人初のノーベル文学賞受賞者となった川端康成のノーベル文学賞対象作品であり、代表作でもある。
日本の文学史を語る上でも欠かせない名作には間違いないのだが、その詳細は意外と知られていないように思う。
まず、この「雪国」は発表する雑誌を転々としながら昭和10年から22年にかけて、実に12年間の連載を経て翌年刊行された作品である。
断続的ではあれ完成に12年かかっている作品である、ということを知っている人は少ないと思う。

では、どういった内容のお話なのか?
内容はいたってシンプル。
というか、当時よくあった設定でストーリーだけを切り取ればベタな内容である。
では、なぜそんな作品が世界的に高い評価を得ているのか。
それはやはり川端康成の描写の秀麗さ、そして美に対する執着によるものではないか、と思う。
そしてそれが実に日本的な風景や様式美とリンクしていたのだろう。

「雪国」は親からの財産で生活を送る妻子持ちの文筆家・島村が雪国の温泉旅館に通い、駒子という芸者との関係を深める様子を綴った物語。
駒子が待つ雪国に半年ぶりに汽車で向かう道中から物語は始まる。
汽車の中で、葉子という女性とその連れの男性を見かける。
男性は明らかな病人だった。
島村は葉子に惹かれる。
妻子ある身の男が浮気相手に会いに行く道すがら、また別の女性に見惚れる……、現代なら完全にアウトなお話です。
旅館に着いた島村は駒子と落ち合う。
二人が大人の関係にあることを川端康成は「あんなことがあったのに」というセリフだけで読者に解らせる。
このあたりの品性があるので、少々倫理的に問題がある作品でも抵抗感なく読めるのだろう。
島村は人差し指だけ伸ばした左手の握り拳を駒子の眼前につきつけて、「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と言う。
こちらも直接的な表現は避けているのに卑猥な想像をかき立てる秀逸なセリフだと思う。
拗ねる駒子、からかう島村。
この構図で話は推移する。
物語的にはその後、汽車で会った病弱な男が駒子の婚約者だと聞かされるが、駒子がそれを否定する話や、ある日村の小屋が火事になり、二階から葉子の体が落ちてきて駒子が抱き抱え「自分の犠牲か刑罰」かのように思う話が展開される。

だが、正直この作品の評価はそのあたりの「筋運び」にあるわけではない。
例えば冒頭の汽車の中で葉子の姿を見ている場面。

窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。

文章としての完成度も高く、まるで映像を見ているかのように情景が脳裏に浮かぶ。
だが、この文章の効果はそれだけではない。
見えたものを「見たまま」にただ言葉を連ねた文章なのではなく、その情景描写の中にこの物語の行く末に対する「予感」が内包されているのだ。
「伏線」と言うと軽くなってしまうその内容物はあくまで「予感」の範囲に収まっている。
『雪国』においてそれは葉子に対する思慕の予感である。
ここで気づくのは島村はただの女好きなのではなく、「美しいもの」が好きなのではないか、ということ。
そう思うと「雪国」の全体像もだいぶ違った印象になる。ただ美しいものを追い求めた男の物語とも読める。

 

この小説を再読した時期と以前紹介した村上春樹氏の『ノルウェイの森』を読んだ時期が重なっていたのでそう思っただけかもしれないが、『雪国』と『ノルウェイの森』には共通点が多いような気がする。
主人公の存在感の希薄さ、生と死の間にいるような不安定な舞台(雪山も森も生の輪郭がぼやけるような場所である)、無気力なのに女性を魅了する主人公、火事を女性と見る場面などなどかなりの共通点がある。
また、物語のラストの突発的ともとれる「破滅的な狂気」は村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』とも近いものを感じた。
少なからず、現代を代表するダブル村上と共通点の多い作家であることは間違いないと思う。

ところでこの『雪国』は私小説だと思っている人もいるかもしれない。
文筆家が主人公であるところもそうだが、小説家が若い女性との不貞を赤裸々に描く私小説がひとつの潮流であったのは間違いないので、そのひとつとして読む人も多いと思う。
だけど、読み進めていくとそれはとんだ勘違いだということに気づかされる。
それは前述した「主人公の存在感の希薄さ」からも読みとれる。
では、なぜ自身と重なる境遇の主人公を描いていながら私小説とはしなかったのか?
それこそが川端康成の「美」に対するこだわりなのではないか、と思う。
主観が強すぎると、情景描写や世界観に作為的なものが入り込んでしまう。あくまで「傍観者」のような視線が必要だったのではないか。
実は村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公ワタナベも作者との共通点の多さから自伝的小説なのではないか、と言われていたが、村上春樹氏自身がそのことを強く否定したらしい。

あくまで「美」を抽出することにこだわった川端康成のエスプレッソのような小説『雪国』。
その濃厚な味を是非堪能してみてください。

YouTubeチャンネル「斉藤紳士の笑いと文学」

<第5回に続く>

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