芥川賞史上もっとも売れた本『限りなく透明に近いブルー』。ドラッグや暴力を描いた村上龍の原点/斉藤紳士のガチ文学レビュー①

文芸・カルチャー

更新日:2024/4/8

はじめまして。
芸人活動を細々と続けながら、文学系のYouTubeをしています斉藤紳士という者です。
今まで数々の小説を読んできた僕がオススメする作品を毎回取り上げていきたいと思っています。
まずは、現代作家の中で最重要でありながら常に新しい分野に挑戦し、動き続けている作家・村上龍さんの作品を紹介します。

 

村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』は発表当時、その内容の過激さ・衝撃度で話題になった。
群像新人文学賞を受賞し、この作品が世に出たのが1976年。
どっぷりオジサンの僕が生まれる前の話なので、相当昔の話である。
だけど、作品から発せられる瑞々しい熱量は令和の現在でも色褪せていない。
発表当時は今のように情報が氾濫している時代ではなかったので「若者の実態」を大人たちが知るのはテレビや雑誌の片隅にあるわずかな情報しかなかった。
しかもこの作品で描かれているのはもっと退廃的でもっと非道徳な常道から外れた若者たちだったので、当然大人たちは知り得ない「若者の実態」だった。
「知られざる若者の実態」は時として若き文学者の格好の小説のネタになる。
そしてそれは読む者に劇薬のように作用し、ある人には激しい拒否反応を、ある人には強い中毒性を与えた。
そういった意味でも歴史ある芥川賞受賞作の中で、作品自体がスキャンダラスに取り上げられたのは石原慎太郎の『太陽の季節』とこの『限りなく透明に近いブルー』以外にはない。

物語の舞台は米軍基地の街・福生の米軍ハウス。
主人公のリュウの周りにはドラッグとセックス、欲に溺れる仲間たちや暴力、刺激的な音楽に満ちている。
なのにもかかわらず、本作全体を覆っているのは背筋が寒くなるほどの静謐なのである。

それは一体何を起因としているのか?

作中、主人公リュウは徹頭徹尾「傍観者」の立ち位置を崩していない。
まるで我々読者の隣りにいて、同じ映画をただ「眺めて」いるかのように振る舞う。
『限りなく透明に近いブルー』はこんな一文で始まる。

飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蝿よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。

普通なら、

耳の後ろ側を飛んでいる虫の羽音がやたらうるさい。
飛行機の音と間違うほどの煩さで耳の近くを通り、部屋の隅へと飛んでいった。

とでも書きそうだが、村上龍はまるでリュウがこの作品の「当事者」から外れたかのような距離感で書き表している。
この作品はリュウの一人称で書かれているにもかかわらず、リュウの実感を書いた文章がほとんど出てこない。
冒頭に出てくる恋人のリリーでさえ「鏡台の前に座っている女」と表現している。
徹底的に冷めた視点で目の前の出来事をただ「見ている」リュウの実体は一体どこにあるのだろう?
社会や自身を巣食う闇、漠然とした不安の象徴として作中に現れる「巨大な黒い鳥」。
この鳥ですら、ドラッグによる幻覚として処理することもできる。

「リュウ、あなた変な人よ、可哀想な人だわ、目を閉じても浮かんでくるいろんな事を見ようってしてるんじゃないの? うまく言えないけど本当に心からさ楽しんでたら、その最中に何かを捜したり考えたりしないはずよ、違う?」

作中でリリーがリュウに向かって言う有名なセリフにもある通り、リュウの冷めた視点に村上龍さんは自覚的だったことがわかる。
半狂乱状態になったリュウがリリーに母性を求めるかのようにすがりつき、何かに怯えるラストが胸に迫るのは、ここまで感情の発露がなかったリュウの切実さからくるものなのかもしれない。

 

この物語にはたくさんの暴力や性行為、喧騒や暴動が描かれています。
中には目を背けたくなるような描写も差し込まれてきます。
しかし、そこにはアメリカに対する憧れや不安。
政治の季節を生きていた若者たちの焦りや苛立ち。
そういった鬱屈としたものが歪み、形を変えて若者たちを突き動かしていたのではないか?
そういう風に読み取れる物語でもあります。
リュウが見ようとしていたものは何か?
そして、何を見て「限りなく透明に近いブルー」だと思ったのか?
芥川賞史上最も売れた(単行本と文庫本の累計で)作品を是非一度読んでみてください。

YouTubeチャンネル「斉藤紳士の笑いと文学」

<第2回に続く>

あわせて読みたい