官能WEB小説マガジン『フルール』出張連載 【第74回】一穂ミチ『青を抱く』

公開日:2015/2/10

 「しずの」

 万に一つの可能性もない、だから人違いだと自分に思い知らせるための空しい呼びかけだった。奇跡を夢見る時期なんかとうに過ぎたはずなのに、寝不足のせいかもしれない。

「……え?」

 案の定男はきょとんとまばたいた。真正面からでもやっぱり似ている、とはいえ同一人物ではありえない。

「すみません」

 泉は慌てて頭を下げた。

「知り合いに似ていたので」

「あーそうなんすかー」

 戸惑った表情がぱっと笑顔に変わる。あ、よかったいい人そうで。軽く頭を下げ通り過ぎようとした時、背後で「え」という声が聞こえた。

「……はい?」

 男に向き直る。

「いや、あの、行っちゃうんだと思って」

「は?」

「人違い装って声かけるって、ナンパの鉄板だから」

 期待しちゃった、と悪びれずに笑う顔まで似ていて、ものすごく腹が立った。

「全然違います」

 人当たりがいいと自他ともに認めるところの自分にしてはつっけんどんに否定すると歩みを速める。

「あ、待って待って」

 むかついていても、あからさまに無視できるほど気が強くない。「まだ何か?」と声を低めて立ち止まるのが精いっぱいだった。

「これ」

 ひしゃげた空き缶が差し出される。

「ごみ拾ってんだよね? ついでに。駄目なら俺が捨てとくけど」

「……ありがとうございます。いただきます」

 袋の口を広げながら、何でお礼言っちゃってんだろうと小心さに呆れた。自分で捨ててくださいって言えばよかった。

 砂にまみれた缶を放り込む時、男はすこしためらった。

「これ、分別とかは?」

「家でします」

「え、悪いね、何か」

「別に……大した志があってしてるわけじゃないんで。暇つぶしです。触りたくないぐらい汚いごみなら放置してますし」

「そっかー」

 缶を手放し、手についた砂を軽く払うと、泉を見てこらえきれなくなったように笑い出す。

「何か?」

「今、『ありがとうございます』って言ってから、『あっしまった』みたいな顔してたでしょ」

「えっ」

 そんなに分かりやすかったのだろうか。図星すぎてとっさに否定もできずにいると「素直……」と目を糸にした。そして言葉が出ない泉に尋ねる。

「名前、何ていうんですか?」

「……それってナンパですか」

「うん、そう。鉄板でしょ」

 

 

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