30年連れ添った女は“無戸籍”だった――/『忌まわ昔』“人妻、死にて後に、本(もと)の形となりて旧夫に会ひし語”①

文芸・カルチャー

更新日:2019/7/10

 平安の世から令和の今に、遠く忌まわしき話の数々が甦る。「今は昔」で始まり、「となむ語り伝へたるとや」で終わる「今昔物語集」。これを下敷きに、人間に巣くう欲望の闇を実際の事件・出来事を題材に岩井志麻子が語り直す。時代が変わっても人間の愚かさは変わらない――。収録された10篇の中から、壮絶すぎる人生を送った女の話を5回連載で紹介します。

『忌まわ昔』(岩井志麻子/KADOKAWA)

人妻、死にて後に、本の形となりて旧夫に会ひし語(巻第二十七第二十四話)

 京に貧乏だが仲のいい若い侍夫婦がいた。あるとき、地方長官からお声がかかり、侍は任国に随行することになった。貧乏から脱出する絶好の機会だったが、最愛の妻を捨てなければならない。罪悪感を抱えたまま新たな妻と任国に下った。やがて任期を終えた夫は前妻のもとに急ぎ、互いの愛を確かめ合ったが、朝目を覚ますと抱いていたのはミイラ化した前妻であった。

 三十年以上、一緒に暮らした女。結婚式も挙げず籍も入れていなかったが、当人同士も周りも似合いの夫婦だと思っていた。

 その女が死後、無戸籍だったとわかった。

 三十年も家族として暮らした相手が、何者だかわからない。その女の死と愛の物語はいっときワイドショーでも週刊誌でも取り上げられ、ネットでも騒がれた。

 元はといえば、長年連れ添っていた女が病死したのに男は放置して逃げ、死体遺棄で逮捕されたところから始まっている。

 男は高齢のため年金暮らしとなり、それまで細々とパート仕事に出ていた女も体を壊したこともあり、自宅にこもっていた。

 急激に女は衰弱していき、まだ五十代半ばなのに足腰が立たなくなり、トイレにも一人では行けなくなった。男は甲斐甲斐しく、すべての世話をした。

 二人はおよそ三十年前、遠く離れた地方都市で出会い、スナック勤めをしていた女は五歳くらいの息子を置いて、男と駆け落ちした。

 職場と住居を二人で転々とし、十年くらい前から終の棲家となる古びた安アパートに落ち着いた。倹しくも睦まじい、温厚な夫婦と見られていた。

 ただ女は、住民票を移さず保険証も持とうとしなかった。女が就く仕事は常に、きちんとした身分証明が要らないものばかりだった。

 いよいよ病状が悪化し、元の居住地で身分証明書をもらって保険証を作り、通院しようといい出した男に、女は決して首を縦に振らなかった。

「あれこれ、過去と身元を詮索されるのが嫌。昔の自分は切り捨てたい。このまま、あなたの妻として静かに死にたい」

 そうしてある寒い朝、男におかゆを食べさせてもらって、おいしい、とつぶやき、こと切れた。寂しく、安らかな死だった。

 男は女の死を認めたくないのと、恐ろしさが押し寄せてきたことで、誰にも女の死を知らせなかった。遺体はベッドに安置し、大量の消臭剤を買ってきて周りに置いた。大家や近所の人には、妻は実家のそばの病院に入院させたといった。

 実に一年近くを、男は女の遺体のそばで暮らしたのだ。

 女の姿を見かけなくなっただけで、男の生活や様子は変わりなかった。近所の人に、今日は病院に妻の見舞いに行くとにこやかに話したこともあったという。

 ところがアパートの老朽化で取り壊しが決まり、住人は立ち退きを迫られた。その期限が明日に迫ったとき、男は女の遺体を放置して逃げた。

 翌日、ほぼ白骨化した女の遺体は発見され、付近にいた男もすぐに捕まった。

 世間の耳目を集めたのは、ここからだった。女の身許が、まったくわからないのだ。本名も生年月日も本籍地も、何もかも。

 警察は、二人が出会った場である地方都市のスナックなども調べたが、店自体もとうになくなり、関係者も死亡したり遠くに行ってしまったりで、どうにも探しようがない。

 昔は銀行口座を作るのも簡単で、女への給与はそこに振り込まれていた。男には平凡な名前を本名として教え、男と一緒になってからは男の姓を名乗っていた。

 拘置所にいる男に、思わず警官は謝ってしまったという。

「ごめんな。奥さんの身許はわからない」

 世間も、男を責める人は少なかった。駆け落ちだったこと、女が子どもを置き去りにしたこと、男が女の遺体を放置して逃げたことは、三十年連れ添って晩年は男が献身的に介護して最期を看取ったというので、相殺されたのだ。

 何より、女の「無戸籍」だ。そんな人が普通に生きていたんだと、言葉の響きとともに多くの人が衝撃を受けた。無戸籍。乾いた空疎な響きもあり、得体の知れない不気味さもあった。あらゆる事実と状況を、無戸籍という言葉が覆い隠した。

 しばらくして、司法解剖や様々な状況証拠から、女は死亡時に五十五歳ではなく六十五歳だったのではないか、という記事が出た。

 案外、女は身元や本名よりも、男に本当の年齢を隠したかったのかもしれない。

 オカルト好き、ミステリー好きによってネットで取り上げられ、様々な推理や憶測を呼んでいたが、テレビや雑誌などではすぐに忘れ去られていった。

 妻だった女は事件性なしの病死と断定され、身元不明者として共同墓地に埋葬された。夫だった男は死体遺棄などで懲役刑はいい渡されたが執行猶予がつき、釈放された。その後の消息は、まったくわからない。

<第2回に続く>

著者プロフィール
岩井志麻子●1964年、岡山県出身。99年、短編「ぼっけえ、きょうてえ」で第6回日本ホラー大賞を受賞。また、同作に書き下ろし3編を加えた質の高い作品性を支持され、第13回山本周五郎賞を受賞する。恋愛小説『チャイ・コイ』で第2回婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で第9回島清恋愛文学賞を受賞。ほかに『岡山女』『夜啼きの森』『合意情死』『楽園』『恋愛詐欺師』、「備前風呂屋怪談」シリーズ、「現代百物語」シリーズなど多数の著書がある。