「彼女いても私大丈夫ですよ。」『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』③

文芸・カルチャー

更新日:2019/11/11

『無自覚な恋の水槽の中で 6階の厄介な住人たち』(イアム/KADOKAWA)

「バカだ、俺は。今になって、あの唇の感触を反芻するなんて。こんなに会いたくて、触れたくて仕方ないなんて」嘘が上手なモテ男×空気担当の喪女、おじさま好きの女子大生×DTの美男子大学生…WEB恋愛小説の女王「イアム」による、切なく、苦しく、とびきり甘い、眠れぬ夜の大人のためのラブストーリーに加筆修正をくわえて書籍化!

 呼び出すという行為もなかなか無理やりな気がするけれど、一度は「自分が返してもいいけど」と言った彼も、食い下がる俺にすぐに折れてくれた。ほんの少しニヤリとしたところを見ると、変な勘違いをしたらしい。「電話で伝えておく」と言ったあとで、「頑張れよ」となぜか先輩風を吹かされ励まされた。

 エレベーター付近も、集合ポストの前も突っ立っているには怪しいので、外の方へ出て植え込みの横の段差に腰かける。おりてきたら靴音で気付くはずだ。

 8時前ということで外は暗く、入口を照らすライトがひとつ、俺の影をぼんやりとコンクリートの地面に作っている。

「……ばんは」

「……っ!」

 背後からの急な声に叫びそうになった。靴音がしなかったからだ。

 見ると、例のお菊人形のような女が、ライトを背に受けて立っていた。逆光だと、いっそう不気味だ。

「……こんばんは」

 動悸を落ち着かせながら挨拶を返した俺は、彼女を下からまじまじと見る。グレーのスニーカーに黒のスキニー、ゆったりめの白いTシャツ。地味は地味だけれど、朝に見たときよりはかなり若く見える。というか、実はけっこうなスタイルの良さだ。足のラインもキレイだし、胸も結構ある。けれど、俯きがちで、おかっぱ頭と眼鏡を防具のようにして顔を隠しているさまは、やはりいただけなかった。

「……あの、なに……なんでしょうか? お話というのは」

 あ。……見えた。絆創膏。

 目的を思い出した俺は、口を開く。

「あの、昨夜のことなんだけど」

「……昨夜?」

「そう、深夜。俺の部屋を自分んちと間違えて、鍵ガチャガチャしてたでしょ?」

「……あぁ、あなたの家だったんですね。申し訳ございませんでした」

 彼女は思い出したらしく、深すぎるくらい深々と頭を下げた。というか、やはり俺の顔は覚えていなかったらしい。

「いや、それはいいんだけど、キミ、そのとき俺が開けたドアでおでこぶつけたでしょ? ほら、今絆創膏してるところ。本当にごめん。ごめんなさい。その……大丈夫……ですか?」

「おでこ……」

 彼女は、ゆっくり手を額に持っていき、「……あぁ」と言った。

「大丈夫……です」

「いや、でも……」

 そこで、自分の至らなさに気付いた。謝るんだったら、謝罪の品というか、菓子折りのひとつでも用意してくればよかった。

「私……ド近眼で、昨夜は火事だって気付いて、慌てて眼鏡なしで部屋を飛び出しちゃったんです。だから、エレベーターで押すボタンも間違って。……自業自得です」

「ド近眼……」

「はい。外すと、この距離でもあなたの顔がぼやけます」

 そう言って彼女は眼鏡を外して見せ、目を細めたしかめっ面を披露した。なぜか、口も尖らせている。

「…………」

 性懲りもなく、俺はまたほのかな期待をしていた。ビン底眼鏡を取ると、あらなんという美少女、という都合のいい神話を。

 結論から言うと、普通だった。スッピンだということもあるだろうが、薄い眉毛に、小さくも大きくもない奥二重の目、うっすらとそばかす、決して高くはない鼻に、唇の形だけは……まぁ、キレイなほうか。それでも、眼鏡装着時と比べればだいぶ……。

「いいですね、眼鏡ないほうが」

「…………」

 彼女は、は? という表情を作った後で、すかさず眼鏡を付けなおした。そして明らかに挙動不審になりながら、

「とにかく、傷のことは気にしないでください。どうしても気になるのでしたら……」

 と早口で話しだす。そして、俺のコンビニ袋に雑に手を突っ込んだ。突然の奇行に、俺は目を丸くしてのけぞる。

「これでいいです。これ、いただきますので、これで」

「え?」

 彼女は、俺の発泡酒をぶん取って、早送りのように会釈をしてエントランスの中へ入っていった。まるでひったくりだ。

「……俺の……発泡酒……」

 呆然として彼女が去った場所を見つめながら呟く。仕事から帰った後のささやかな楽しみを、目の前で奪われてしまった。けれど……うん、これでよかったのかもしれない。これで後腐れなく謝罪ができたことに……。

「……ん?」

 俺は、かばんの外ポケットに手を入れた。すると、シワシワになってしまった花柄のハンカチが出現する。

「…………」

 マジか……忘れてた。

 俺は額を押さえて大きなため息をつく。そして、下を見ると同時になにかに気付いた。

「……?」

 繋ぎの金具部分が切れた、黄色模様の魚のキーホルダーが転がっている。

 さっきはなかった。うん、たしかに……なかった。

 拾った俺は、さっきの倍の勢いでため息をつき、へにゃりと首を曲げた。

「……どんだけ落とすんだよ、あのコミュ障」

 

「枦山さん、モテるでしょ?」

 これでもかというほど唇をテカらせた女が、横から不自然に首を傾けて覗き込む。

「なんで?」

「えー、だって、ほめ上手だし、女の子が喜ぶツボ心得てる感じだもん」

 土曜の夜9時。掘りごたつの個室の部屋、壁の間接照明が暖色を灯し、古風な障子戸が仕切る中、男女で互いに品定めという趣のないことをやっている。

 男は俺と須田と、須田の同期の沖見。女の子はアパレル関係の仕事らしく、歳はみんな23ということだった。だから、自分が最年長だ。

「そんなことないよ。アミちゃんたちのほうが出会いもたくさんあるし、それに若くて可愛いときたら、モテないはずがないでしょ」

「もー、それが全然なんですよー。草食ばっか。草すら食べずに空気食べてんじゃない? っつーの」

 すかさず肩にカラフルなネイルの指を添える彼女。あなたのその肉食ぶりに引いてるんでしょ? 男は。

「じゃあ、攻められたい派なの?」

「えー。枦山さんならいいかなー」

「光栄だけど、残念。今夜はこの後予定があるんだ」

「えー、やだー。じゃあ、はい。連絡先交換しよ?」

 みんな2次会へ行くということで、場所を移動すべく席を立つ。俺は会計を済ませた後で須田を店の脇に呼んで、帰る旨を伝えた。

「このまま2次会行っちゃいましょうよ、枦山さん」

「いやー、でも、彼女が家で待ってるから」

「そっかぁ、そっすよね、そうあるべきっすよね。いや、ホント来てくれて盛り上げてくださっただけでも感謝です。それに会計まで……」

「それはいいんだけど、あのアミちゃんて子にそれとなく伝えといてよ、俺彼女いるって」

「マジっすか? 俺、殴られる」

 酒で赤くなった?を両手で覆って、ムンクの叫びみたいな顔をする須田。俺は、ハハハと笑って、スマホをポケットから取り出す。

「あ、なんか一緒に落ちましたよ。袋?」

 ジーンズのポケットから落ちた透明袋を拾った須田は、中身に首を傾げながら俺に差し出す。

「あぁ、悪い」

「これ、彼女さんのですか?」

「あー……うん。そう」

 面倒くさくて嘘をつく。それは、あのお菊人形女が落としたハンカチを洗濯して、キーホルダーとともに袋に入れておいたものだった。

 あの日、結局ハンカチを洗濯することにした俺は、翌日607にピンポンして女に返してほしいと言いに行ったのだけれど、あいにく彼は留守だった。その次の日も次の日も、女の部屋を知らず彼しかパイプがない俺はインターホンを押し続けたけれど、タイミングが合わなかったのか結局会えずじまいだった。

 だから、エントランスやエレベーターで偶然会ったら返そうと、こうしてずっと持ち歩いているのだ。

「彼女さん、会ってみたいっす。もう、長いんですよね? 2年?」

「まー、うん、そのくらいだな。2年が長いのかどうかは置いといて」

 そんな話を最後に、「それじゃ」と手を振って別れた俺は、タクシーを呼び止めた。乗り込むと、白いシートに背を預けて後頭部をもたせかけ、ふー、と大きく息を吐く。

 受け取って手に持ったままだった袋を持ち上げ、目の前にぶらさげた。ハンカチの隅で、キーホルダーのはこフグが小さな口をまんまるにしながらこちらを見ている。

「ふ」

 その間抜け顔にちょっと笑ってしまった俺は、自分の家の鍵を反対の手でポケットから取り出し、空中で横に並べて眺める。袋の中のフグは黄色模様、俺の鍵についているのは、青模様。……色違いで同じもの。

「…………」

 これは、一番近い水族館で売られている、その館オリジナルの商品だ。あの日家に帰ってからまじまじと見て初めて気付いたときと同じで、なんというか……とても微妙な気持ちになる。

 そのとき、ポケットの中でスマホが振動した。取り出して画面を見ると、その通知は先ほどのアミちゃんからのもの。

【枦山さん、彼女いても私大丈夫ですよ。今度ふたりで飲みましょう】

 ご丁寧にハートマークまで。

〝大丈夫ですよ〟……って、なにが?

 噴きだして、その積極さに感心する。可愛かったし、バカっぽいとは思うけど嫌いじゃない。

【わかった。今日はありがとう。またね】

 短く返信して、スマホをポケットに戻した俺は、タクシーの窓から土曜の街の明かりと賑やかさを眺める。明るいところと暗いところ、集団の笑顔と個人の真顔が交錯しているのを見て、この中にはどれだけの嘘がひしめいているのだろうかと、ぼんやり思った。

「〝彼女〟……ねぇ……」

〝彼女がいる〟という呪文は、いわば〝ふるい〟だ。そのときそのときで、刹那的に満たされればそれだけでいい。だから、その利害が一致する相手を、ふるいにかけて選別する。

 機嫌取りが面倒で、生活に干渉され、自由時間は減り、金もかかる。そんな、益に対して損の比重が多すぎる彼女なんて存在、今の俺には必要のないものだから。

<第4回に続く>

連載継続中の第3章以降はコチラ

イアム●小説投稿サイト「エブリスタ」で圧倒的な人気をほこるWEB恋愛小説の女王。主な著書に『失恋未遂』1~5巻(高宮ニカ作画/双葉社ジュールコミックス)、『コーヒーに角砂糖の男』(小学館文庫)、麻沢奏名義で『いつかのラブレターを、きみにもう一度』『放課後』三部作、『ウソツキチョコレート』(以上スターツ出版文庫)、『あの日の花火を君ともう一度』『僕の呪われた恋は君に届かない』(以上双葉文庫)など。 エブリスタにて『6階の厄介な住人たち』連載中。