姉の留守中お世話をする犬の安藤さん。予防注射のため病院探しを/『高遠動物病院へようこそ!』②

文芸・カルチャー

2019/11/16

独立したてのWEBデザイナー日和は、姉夫婦から頼まれ、2年間だけ雑種犬「安藤さん」と暮らすことになった。安藤さんの予防接種のため、初めて訪れた動物病院は、診察券すらなくスタッフは獣医の高遠のみで…。
待望のシリーズ2巻が11月15日に発売!

『高遠動物病院へようこそ!』(谷崎泉:著、ねぎしきょうこ:イラスト/KADOKAWA)

一話

 犬を飼うには行政上のルールがある。生後九十日を超えた犬には、登録と狂犬病予防注射が義務づけられており、飼い始めてから三十日以内に居住地の役場か保健所に届けを出さなければならない…というようなものだ。

 他にもワクチン注射や予防薬が必要といった犬を飼う人間にとっての約束事みたいなものを、安藤さんを預かることになった時に、私は姉から延々と聞かされた。安藤さんは元々姉が飼っていた犬で、海外への転勤が決まった旦那さんに同行することになった為、私が一緒に暮らすことになったのだ。

 私は犬も猫も…そもそもペットというものを飼った経験がなく、自分にはとても無理だと思って断ろうとしたものの、背に腹はかえられぬ事情があり安藤さんを預からざるを得なくなった。

 というのは。

 

「ううむ……」

 何度通帳を確かめても数字が変わるわけがないのに、つい、開いてしまう。今月の収入は先月よりも更に少なかった。恐らく、来月はもっと…。

「困ったな…」

 思わず独り言を呟くと、部屋の壁際に置いてあるベッドで寝ていた安藤さんが顔を上げるのが分かった。何ですか? と用を聞いているような顔に、「すみません」と詫びる。

「独り言です。安藤さんのことじゃないですから」

 安藤さんが賢い犬だというのは、散々姉から聞かされていたし、実際、姉の家で会った安藤さんは穏やかで落ち着いていて、非常に出来た犬だった。一緒に暮らすようになると、安藤さんの賢さに益々感心した。

 安藤さんは人の言葉が全て分かってるんじゃないかと思う。犬だからもちろん、言葉は話せないけど、目や表情でいつも語りかけて来るんだから。

 姉がそんな話をしていた時は、何を言ってるのかと、その犬バカ振りに呆れたものだが、今ではミイラ取りがミイラになってしまった。今では私も安藤さんにはこちらの言葉が通じていると信じている。安藤さんを相手にしていると、本当に「話している」ような感覚になるのだ。

「いえ、生きていくというのはなかなか厳しいものだと思いまして」

 私から不安げな雰囲気を感じたのか、安藤さんは傍まで近づいて来て、お座りをする。じっと見上げる顔は「大丈夫ですか?」と問いかけているようで、つい答えてしまう。ごく自然にそうしてしまうのだが、犬と話しているのはやはり痛く見えるだろうから、安藤さんと「話す」のは家の中だけにしようと、気をつけている。

「生きていくのにはお金が必要で、仕事をしないとお金が貰えないんです」

 昨年、勤めていた会社が倒産し、私はフリーで仕事をしていく決意を固めた。IT系の会社でWEBデザイナーをしていたので、それなりにスキルもあり、何とかなるだろうと思ったのだが、世の中はそれほど甘くなく。

 会社員時代の半分に満たない額しか稼げず、困りかけていたところへ、姉が魅力的な話を持ちかけて来た。旦那さんが海外転勤となったので、自分のマンションで安藤さんの面倒を見ながら留守番してくれないかというものだった。

 姉は結婚後、茜銀座商店街という便利スポットにほど近い、都心の分譲マンションを買い、旦那さんと犬と暮らしていた。2LDKの広いマンションで、家賃はただ、犬の世話代代わりに光熱費まで出してくれるというのだから、私に断る理由はなかった。

 赴任期間は二年。その間に仕事を増やし、軌道に乗せられたら。そんな目論見もあり、私は安藤さんのお世話係を引き受け、引っ越して来たのだが。

「安藤さんは心配ないんです。安藤さんのドッグフード代はお姉ちゃんが出してくれますから、安心して下さい。問題は…」

 私なのだ。今の主な仕事は会社員時代の知り合いから貰っているが、それだけじゃ追いつかない。新規の仕事を受注する為、色々試してはいるが、なかなか結果が出ないのが現状だ。今は家賃と光熱費を払わなくていいので、何とかなっているが…。

 やはり再就職した方がいいのではとも思うが、安藤さんを預かっている間は、外へ働きには出られない。愛犬家で心配性の姉は、家賃光熱費ただの条件として、安藤さんを長時間ひとりで留守番させないことを第一にあげている。つまり、私は最低二年間は自宅でこなせる仕事しか出来ないのだ。

「…正社員は無理でも、バイトくらい、するべきでしょうか…」

 けど、それもなかなか…。力無く首を振り、残高が減っていくばかりの通帳を畳んで机に置く。仕事のスケジュールを確認しようと手帳を開いた私は、「あ」と声を上げた。

「そうだ。安藤さん。狂犬病の注射を打たなきゃいけません」

 注射なんて安藤さんには苦行だろうけど、狂犬病と他の病気を予防するワクチンをそれぞれ年に一度、打たなきゃいけないのだと姉から注意されている。狂犬病の予防注射を受ける期間は四月から六月までと決まっていて、忘れないようにとスケジュール帳にメモしてあった。

「問題は何処で注射するかですね…」

 姉は安藤さんを旦那さんの運転する車で離れた動物病院へ連れて行ってたのだが、私は車を持っていない。なので、歩いて行ける範囲で動物病院を探すよう、言われていた。

「買い物に行くついでに例の病院を探して来ます」

 スケジュール帳を閉じて立ち上がる私を、安藤さんは「お世話をおかけします」というように、丸い目で見つめていた。

<第3回に続く>