柴崎友香は「変わらない日常を淡々と描く」わけではない。生活のなかのざわめきを映す傑作『待ち遠しい』

文芸・カルチャー

公開日:2023/4/4

待ち遠しい(毎日文庫)
待ち遠しい(毎日文庫)』(柴崎友香/毎日新聞出版)

「変わらない日常を淡々と描いた」「何か特別な事件が起こるわけでもない」――柴崎友香氏の小説は、そんな風に評されることが少なくない。これは柴崎の作品に影響を与えただろう保坂和志氏や、保坂氏に感化された長嶋有氏の作品にも当てはまる指摘だ。

 筆者はそれがずっと不思議だった。平坦に見える日常には、凝視すれば幾らだってドラマは転がっている。柴崎はそれを見逃すことなく、丁寧に拾い上げてみせ、物語へと昇華させてゆく。同時代を生きる女性の日常にフォーカスした『待ち遠しい(毎日文庫)』もまた、そうした特色を備えた小説である。

 主要人物は3人の女性。ひとり暮らし歴が10年になる会社員、春子(39歳)。春子が住んでいる離れの母屋に大家として越してくる、ゆかり(63歳)。ゆかりの甥の妻で、結婚したばかりで精神的に不安定な沙希(25歳)。三者三様というべきか、3人の暮らしはまったく異なる方向を向いている。

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 春子はマイペースで他人と積極的にコミュニケーションをとるタイプではなく、趣味は消しゴムハンコを作ること。ゆかりはおおらかで開けっぴろげな性格だが、夫を亡くしたことや実の娘との離散に悩んでいる。沙希はそんなふたりに、時に失礼なことまでずけずけと言ってしまう癖がある。

 結婚や出産に関する価値観がまったく異なる3人の会話は、ページをめくるごとに徐々に交わり始める。初めこそぎこちなく、話は噛み合わないものの、やがてお互いの想いを尊重するように変化してゆく。たまたま近所に住んでいたことが契機となった交友だが、思いの外、距離が縮まってゆくのが面白い。

 自宅に食事にこないかと度々誘うゆかりに、最初は抵抗を感じていた春子も少しずつ心をひらいてゆく。いわゆるトラブルメイカーだった沙希の言動も、根底に悪気があるわけではないから、ふたりは嫌味には思わなくなってくる。

 特に、意識的に他者と一定の距離を置いて生きてきた春子は、自分の殻を破って本音を漏らしだす。褒められるのも苦手で、とかく「自分なんて」と卑下している春子。だが彼女は、ゆかりの素直で率直な振る舞いに胸襟を開いて話し出だす。独善的な振る舞いが目立つ沙希に対しても、好意的なスタンスを崩さない。

 人にはそれぞれ事情がある。そんな当たり前のことを実感させられた。いや、恋愛でも結婚でも子育てでも仕事でも、何らかの事情がない人なんていないだろう。それでも人生、なんとかして折り合いをつけてゆくしかない。絶望している時間はもったいない。人生ありものでやっていくしかないのだから――筆者は本書からそんなメッセージを受け取った。

 ちなみに、春子が住む離れとゆかりが住む母屋の間に小さな庭がある。この庭の存在が、本書の風通しの良さへつながっているように思う。何かと衝突しがちな3人の間にある、庭という緩衝材が、物語を静かに駆動させる。そう、柴崎氏は長嶋有氏がそうであるように、「場所」を描くことに秀でた作家でもある。母屋と離れと庭。このみっつを行き来する3人を追っていると、全員の関係性が明瞭に見えてくる。

 何も起こらない。穏やかで淡々とした日常が続く。大きな事件には遭遇しない。そう評されがちな柴崎氏の小説はしかし、鮮やかに反転する。個々のキャラクターの内面を覗きこんでみると、感情のざわめきが渦を巻いていて、心中穏やかじゃない。特に、この『待ち遠しい』にはそうした傾向が強い。冒頭で述べたような予断を持っている方はもちろん、場所を描く小説家・柴崎友香のコアに触れてみたい読書家にも味読してほしい小説だ。

文=土佐有明

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